幕末と俺


 ペリー来航から西南戦争まで、19世紀半ばからの日本の約20年はとんでもねえ。その後もとんでもねえが、まずこの20年はとんでもねえ。アメリカは南北戦争の頃で、ブルーズはまだ誕生していない。いや、日本でも小唄みたいなものは歌われていたみたいだから、記録に残っていないだけで、誰かがブルーズをやっていた可能性はある。ただ、今回はその話ではない。

 俺が大の歴史好きであることは、いまさら言わずもがな、俺検定初級程度の知識だろうが、歴史について他者とああだこうだ話し合おうとすると、特に婦女子には「勘弁してよ」的な態度を取られることが多い。とはいえ、歴史は「思い出す」というポジティブな行為であり、過去の人間を思い出すことによって彼らを今に蘇生させ、逆説的に今を知る、そして、自分を知ることに他ならないわけで、本来、男も女もない、人間の普遍的な興味であるはずだ。小林秀雄は、歴史を「子供を失った母親の悲しみに似ている」と、ズバリ言っている(参照、歴史について)。うんと端折って「おいお前、歴史は悲しみだぞ」という切り出しで話そうする俺のやり方がまずいのやもしれぬ。あるいは、俺の語り口調や風貌、高圧的な態度がまずいのやもしれぬ。俺としては、歴史の話は「一郎石川のすべらない話」的な一撃必殺トークなのだが、誰も聞いてくれないので、今ここに独白するっていう寸法だ。

 ここ数年、昭和史を比較的丹念に読んで/考えてきていたが、この年末、ついに幕末/明治維新に及んだ。
 今年の秋、当ブログで「歴史と俺 プロローグ」を発表した際、「建武中興なら建武中興、明治維新なら明治維新という様な歴史の急所に、はっきりと重点を定めて、そこを出来るだけ精しく、日本の伝統の機微、日本人の生活の機微にわたって教える、思い切ってそういう事をやるがよい」という小林秀雄の言葉の引用で締めたが、いつかは「建武中興」と「明治維新」という歴史の急所にはっきりと重点を定めて、そこを出来るだけ精しく、日本の伝統の機微、日本人の生活の機微にわたって考えたいと思っていて、今回はまず後者をとりあえず、精しくやった次第だ。

 今回あたった書は半藤一利「幕末史」(新潮社刊/08年)。半藤は、昭和の歴史をグワッと考えたときに最も多くあたった人で、そろそろ幕末/明治維新を生きたいと思っていた矢先、さすがのタイミングで新潮社が上梓してくれた格好になった。本書は語り下ろしというのがいい。研究書の類いは教科書みたいで読みづらいし、歴史小説は逆にエンターテイメントの要素が無理矢理入っているから、単純に史実を知りたい者にとってはちょっと楽しめない。
 また、この手の書の場合、著者の立ち位置というものがすごく重要だ。本書は著者自身も作中で明言しているが、幕府を倒した薩長軍、維新軍を悪者扱いという立場をとっている。俺は、中立という一見もっともだが実は中途半端なだけの立ち位置が好きではない。書き手の顔が分からない、感情がないからだ。人間が何かを言う、そのときに中立、客観というのはあり得ない(もちろん、感情だけ、考え抜かれていない感想文などは論外だ、一番くだらねえ)。どっち寄りであろうが、誰に肩入れしていようが事実を歪曲していなければ関係ない。むしろ、立場が明快であるということは心がこもっているという事だから、信用がおける。読後、俺がどっち寄りになるかは、俺次第だ。著者の思想は関係ない。
 では、俺はどう思ったか。一言で言えば「西郷隆盛か…」だ。佐幕派、倒幕派、どっちでもよい。それぞれの個々の人間の運命を思い知ったまでだ。西郷隆盛、坂本龍馬、勝海舟あたりの生き様にはやはりグッときたが、大久保利通、木戸孝允、山県有朋、伊藤博文、岩倉具視、みなそれぞれがそれぞれの運命を背負って生き、死んだ。俺の今は、確実にそこから続いている。
 とまあ月並みで、どの時代の歴史であれ、思い至ることにやはり思い至ったわけだが、つまり、ああ人間…。ああ時代…。ああ人生…。ということだ。
 余談だが、俺は勝海舟だ。

 次は「建武中興」に行く予定だが、その前に、もうちょっと幕末/明治ものをひもときたい。また、その時代を描いた鴎外、漱石、芥川、荷風あたりの文学にも触れておきたい。

by ichiro_ishikawa | 2008-12-30 15:59 | 文学 | Comments(0)  

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