太宰治生誕100年:新春座談会


 6年制の大学をいよいよ卒業できるとふんだ1997年2月、人生最後の大旅行とばかりに2ヶ月の予定でヨーロッパ旅行を計画(計画名「プロジェクトA」原題:A計劃)した俺は、卒業論文を学事部に提出し終えたその足で、グワッとロンドンに飛んだわけだが、数週間後、千葉の実家から「お前、卒業出来ないらしいぞ、先生にすぐに電話しろ」と意外な連絡を受けた。
 急ぎ、国際電話をかけたところ、「“近代文学史II”の点数が2点足らないから卒業必要単位が満たない。追試をやってやろうと思ったが、そっちにいるなら仕方がない、近代文学の作品一つを選び20枚の論文を書け、その出来次第では卒業させてやらんでもない」と、指令を受けた。
 俺はすかさずジャパンセンターで日本近代文学の書籍を探しに出かけ、これで行こうと決めたのが、日本で何回も読んでいた新潮文庫「グッド・バイ」収録の名作「冬の花火」だ(文庫だがここはイギリスなため“洋書”扱いで2000円ぐらいした。そのときのホテルの一泊料金とほぼ同額つけ)。
 ヴィクトーリア駅界隈ベルグレーブロード沿いにあった宿泊先「ホテル・パラマウント」近くのバーガーキングで読書と執筆を続けていたが、思ったより時間がかかり、すでにチケッツを押さえていた次の旅先、アムステルダムへ行く日が到来してしまったため、途中で筆を置き、アムステルダムでやっと傑作を書き上げた俺は、すかさずホテルのロビーから先生の自宅にFAXした(メールなんてない)、という敏腕商社マンのような動きをこなした次第だ。貴重な旅行が、まる4日はつぶれた。

 そんなわけで太宰には一家言ある俺だが、実は卒業以来(卒業出来た)、悪夢を葬るがごとく、太宰は読んだ事もなければ、開いた事もない。
 だが、今春、毎日新聞に「新春太宰座談会」が掲載されていて、その座談主として、今俺がもっとも注目している川上未映子と、大学時代に俺が唯一皆勤した「太宰研究ゼミ」で教わっていた安藤宏教授(97年に俺に試練を課した教授とは別人)が登場している事で、一瞬、俺の中で「1997年の変」が蘇り、ここに一筆認(したた)めたっていう寸法だ。
 
 「生まれてすみません」という、最高のギャグを飛ばして日本文学の大空を掠めて逝った太宰。その2009年初頭に行われた「太宰思い出し会」の模様をここに無断採録する。必読。


太宰治生誕100年:新春座談会/上

 現代の生きにくさを映し出すように太宰治が人気を集めている。価値観が混迷し、閉塞(へいそく)する時代に、「無頼派」作家は何を訴えかけてくるのか。2009年は太宰生誕100年。太宰研究の第一人者である東大准教授の安藤宏さん、作家の川上未映子さん、精神科医の斎藤環さんの3人に、その魅力を2回にわたって語ってもらった。【構成・棚部秀行、写真・岩下幸一郎】





 ◇表情や身ぶりに惹かれた--安藤さん
 ◇語りによる解体に興奮--川上さん
 ◇敵味方をはっきり分ける--斎藤さん

 安藤宏さん 太宰治の初期の文体に「自意識過剰の饒舌(じょうぜつ)体」というのがあって、ある時期すっかりはまっていたことがありました。『晩年』には『道化の華』という小説があって、語り手が小説の進行を注釈していく。ノートにやみくもに書き写したりしていました。内容自体ではなくて、内容を伝える表情や身ぶり、含羞(がんしゅう)、てらい、そういったものにとっても惹(ひ)かれたんです。

 川上未映子さん 太宰を読んだとき、何がそこで語られていたかを全く忘れるくらい、語られ方に興味があったんです。物語がどうやって語りによって解体されていくのかに興奮した。『新ハムレット』や『女の決闘』の作り込まれた手腕に興奮しながら、『待つ』や『古典風』には短さ。この短さでこれだけの読後感を与えることができることに、すごく私は詩的なものを感じます。全部に共通ですが、最後の一行が抜群です。

 斎藤環さん 太宰で印象に残っているのはユーモア感覚の特異さで、この点は古くなっていませんね。一種の自虐ユーモアで、今のニート論壇に相通ずるところもあると思う。『お伽(とぎ)草紙』も『新ハムレット』も2次創作的ですごく上手。おたく的な自意識を発揮しながら、女性にすごくもてるという、このメンタリティーは不思議なんですね。屈折した自虐的な自意識が2次創作もしくは、ユーモアとして発揮される。あるあるネタや自己ツッコミ芸は今でも十分に通用するでしょう。

 安藤 皆さんなぜかベスト3に『人間失格』や『斜陽』が入っていないですね。太宰の小説には手の込んだワザがあって、パロディーの場合も原典をひいてみせて、それをどう変えていくかを題材にしている。情報を単に一方通行ではなくて、どういう意図で、どういう身ぶりで伝えたいのか、常に送り手の顔を見せてくれる。もちろん演じられた顔なんだけれども、顔が見えるから安心して読める。典型的な語りの系譜なんですね。

 川上 描写や言い回し、点の打ち方も独特で、セリフの語尾もおもしろい。私小説的な個人の背景や捏造(ねつぞう)された倫理観も出てくる、技も炸裂(さくれつ)しているし、何をどれくらいの分量で読まされたのか分からないんですね。10代のころに読んでも、「はしか」と呼ばれるものに希薄だったんです。今回再読してみて、弱さや傷つくということの周辺が、大人になった現在においてより実力を持って立ち上がってくる感触がありました。30代ではしかにかかるかもしれません(笑い)。

 安藤 青春のはしかだと言われていたけど大人が読んでおもしろい。小説の作り方や技に評価のポイントが移っていますね。

 斎藤 太宰は精神科医でも好きな人が多いんですが、典型的な「ボーダーラインパーソナリティー」なんです。これは簡単に言えば、その人の価値基準が白か黒かはっきり分かれすぎていて、グレーゾーンがない。自分の敵と味方の区別をはっきり分けていく手つきで、独特のワールドを作っていく。生き方自体も心中未遂を繰り返したり対人関係が不安定、一番典型的なのは、何を書いてもメタフィクションになるところです。どんな閉じた虚構の世界でも作家が顔を出している。読者は、作家と作品のどちらに惹かれているのか分からなくなる。

 川上 でもフィクションは逃れられなくて、読者は分かっているんだけど、作品を私小説的に、必要以上に読みこんでしまって熱狂的になってしまう。ちょっとでも本当に近いものを求めているのかもしれない。

 斎藤 どこを切っても太宰と分かってしまう強烈な文体だから、作家自体への興味が必然的に喚起されてしまう。精神分析でいう転移が起こるんです。転移した人は作家を全知の存在のようにあがめたててしまう。すべてを把握したいという欲望が出て、作品は全部プライベートの情報になる。

 川上 読者は作品からさらに作家を通して、何を見るんでしょう。

 斎藤 結局作家に投影された自分になるんだけど、本人としては作家への愛と錯覚する。

 安藤 よく言われますが、本当に太宰のことを分かっているのは自分だけだ、というのが共通の現象になるわけですね。

 斎藤 はしか的な読み方に近いですね。


 ◇最後も死ぬ気なかったはず--川上さん
 ◇一人で滅べぬ「心中の論理」--安藤さん
 ◇感性はサリンジャーに近い--斎藤さん


 安藤 なぜこの時期にこんなに身ぶりの激しい小説家が出てきたのかを考えてしまう。近代文学を眺めると、大正時代の谷崎潤一郎と佐藤春夫なんかが典型ですが、常に相手があってのパフォーマンスなんですね。互いをモデルにして小説を書きあう。太宰も少年時代にそういう古き良き時代を覗(のぞ)いて育つんだけれども、自分が文壇に出てみると、状況がすっかり変わってしまっているわけです。読者がケタ外れに多くなっていて、もうお互いに文壇作りができなくなっている。そこから読者を呼び込む独り芝居が編み出されていくわけですよね。

 斎藤 作品に自分の生活を投影するけど、作品から逆に自分も影響を受けて、私生活が演技的になっていく。そういう相互の関係があって、フィクションと現実が分からない領域で生き始めるところが魅力的、というか、おもしろいですね。

 川上 結局、太宰治の小説のテーマはなんだったんだろうと漠然としてしまいます。最後も死ぬ気はなかったと思うんです。ただ最後は相手が一枚上手で(笑い)。『人間失格』の直後ですよね。

 安藤 『人間失格』は相当衰弱していますよね。それまでと比べて弱ってきているというイメージがあるんですが。

 川上 私生活の行き詰まりも、執筆の行き詰まりも、全部書き尽くしてゆくには相当な技術と力とぶれない視点が必要です。だから衰弱も、文章を書くためのひとつの要素のような感じがして。

 安藤 実生活の衰弱かどうかは難しいですけど、戦後の民主主義に、ある種の違和感を持つわけですよね。それで滅びを演じようとする。太宰には古風な共同体的感性が一方にあって、「階級」という切り分けがあったからこそ、自分は滅びゆくブルジョアなのだという自己確認もできた。「心中の論理」とでも言うべきか、一人では滅びることはできないから、常に対象が必要になるわけです。

 斎藤 世界の文学でいうと、一番太宰に近いのはサリンジャーだと思うんです。自分の感性だけで敵と味方を切り分けていく饒舌な語り口など、作品に表出された感性は、結構近いところがある。

 川上 『ライ麦畑でつかまえて』に関しては、私は読者としても、同じ印象です。10代で『ライ麦』を読んだときはそんなにおもしろくなかったんですが、20代後半とかでもう一度読むと、そこにある地獄がよく見えます。両作品とも読者のやられ方に共通するところがありますね。

 斎藤 10代のはまり方というかね。日本語訳の問題もありますが、あの語りは僕と君のような2者関係に引きずり込んでしまう。自分だけに語りかけていると感じさせる密室的な感覚が近い。

 川上 それで最後にはゼロか100か、内容より生き様も含めてその作家が好きか嫌いかという評価になってしまいます。

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 ◆3人が選ぶ太宰作品ベスト3

 ◇安藤宏さん
<1>晩年

<2>新ハムレット

<3>風の便り

 ◇川上未映子さん
<1>待つ

<2>古典風

<3>女の決闘

 ◇斎藤環さん
<1>お伽草紙

<2>正義と微笑

<3>葉桜と魔笛

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 ■人物略歴

 ◇あんどう・ひろし
 1958年生まれ。太宰治の文体を中心に、日本近代小説の表現について研究。著書に『自意識の昭和文学』『太宰治 弱さを演じるということ』。

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 ■人物略歴

 ◇かわかみ・みえこ
 1976年生まれ。02年、歌手デビュー。詩人、作家、女優としても活躍し、著書に『わたくし率イン歯ー、または世界』など。08年の『乳と卵』で芥川賞。

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 ■人物略歴

 ◇さいとう・たまき
 1961年生まれ。筑波大大学院博士課程修了。爽風会佐々木病院診療部長。著書に『心理学化する社会』『文学の断層』『母は娘の人生を支配する』など。

毎日新聞 2009年1月5日 東京夕刊



太宰治生誕100年:新春座談会/下

 今年、生誕100年の作家、太宰治を語り尽くす座談会。芥川賞作家の川上未映子さんと安藤宏・東大准教授、精神科医の斎藤環さんが、今回は現代と太宰作品の「近さ」などを議論した。【構成・鈴木英生、写真・岩下幸一郎】

 ◇引きこもり文学に近い--斎藤さん
 ◇防衛的予知が先行する--安藤さん
 ◇ゼロリセット願望を連想--川上さん

 斎藤環さん 太宰作品の普遍性は、手際とか技術、身ぶりといった側面にもあります。「『自意識系のはしか』的な理解はそろそろ終わりにして」という議論もある。

 でも、今、改めて若者に受け入れられるのは、自意識系の読みでしょう。こうした読まれ方をする作家は、佐藤友哉さんや滝本竜彦さんら、最近の若い人でも結構います。いわば「ひきこもり系」です。彼らは、徹底してフィクションでしかない話を書きますよね。佐藤さんはミステリーを書いたし、滝本さんも……。

 川上未映子さん ドラえもんみたいな女の子が出てきて……。

 斎藤 そうそう(笑い)。そういう話で、濃密に作家の自意識を投影する。私小説の枠組みがいらない。太宰も実はそう。純粋なフィクションに、読者は自意識を読み込む。今の30代半ば以下の若者カルチャーには、この語りが読まれやすい雰囲気がある。

 要するに加害者意識です。自分には決定的に劣った属性があるから人々に迷惑をかけてしまう。けど、生きていかざるを得ない。この意識は、太宰と重なるところもある。

 安藤宏さん 引きこもりの場合は、全く人と懸け隔たっていたいのではなくて、隔たっていながらつながっていたい感覚もあるのでは。『人間失格』の主人公と近い?

 斎藤 太宰には、一貫して、人間に引かれながら嫌悪するという二律背反がある。つながろうとすると自分の加害者意識が出てきてしまう。ただし、太宰が引きこもりと違うのは、彼は、一人でいられない人だったことです。引きこもりは孤独にとても強いから、共同体から離れていられる。

 川上 引きこもりの人は、本も読まないと聞きますが。ただじっとしてるんだと。

 斎藤 虚構を楽しめないんです。「リアルがこんなにダメなのに、なんで虚構を楽しめるんだ」と。「虚構に逃避」と言われるけれど、自分に足場がないと虚構に逃げ込むなんてできない。

 川上 自分については本当のところはどう思っているんでしょうか。

 斎藤 無価値。

 川上 無価値だと思う自分が強くあるんですね。

 斎藤 口から出るのは全部が自己否定の言葉だけれど、端からはナルシシスティックにも聞こえる。太宰も、非常に自己否定的だけれど、同時に自己愛的ですよね。

 安藤 それは共通していますね。『人間失格』の主人公は、傷つくことの防衛的予知能力が強い。本当には傷ついていないのかもしれないんですよ。『人間失格』にはさほどの悪人は出てこない。偽善者だって、考えてみればごく普通にいる人です。

 斎藤 単なる自意識のすれ違いやちょっとした偽善で、人間失格と言い切ってしまう美学ですね。それが反転してナルシシズムに行き着く。

 川上 『魚服記』や『斜陽』に近親相姦(きんしんそうかん)のモチーフが少しだけ出てきますよね。

 安藤 共に滅びを演じることによって、言葉で観念共同体を作るような感性がある。

 川上 一人では駄目。そういう願望ってありますか、個人的に?

 安藤 あるかなあ……。

 川上 「ゼロリセット願望」ってありますよね。自分だけゼロになるのは嫌だけど、みんな一斉になら大丈夫で。

 斎藤 通り魔殺人なんかは、そうかもしれません。また、自己愛を否定形でしか表せない人同士が連帯を希求するなら、共に滅びる方向しかないんじゃないでしょうか。

 安藤 必然性があるわけですね。ある意味では非常に自足しているのだけれども激しく相手を求める部分もある。だから極端になる。

 川上 手段としては自虐的に振る舞うしかないけれど、本当は承認されたい。でも、それで共にダメになったら承認も何もなくなるけれど。

 斎藤 究極の承認は共に溶け合うことですから。映画「新世紀エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に」(97年)なんかがそうですね。

 川上 やはり溶け合うといっても、自分が本当にダメになってはいけないんですね。溶け合ってるのを自分だけは認識できる程度じゃないと……。条件つきの承認。

 斎藤 「共にダメになる幻想」を持ちやすいのは、匿名で他者とつながっているときでしょう。その意味で、今のインターネット空間は錯覚に陥りやすいところがある。

 ◇言葉で間接的につながる--安藤さん
 ◇ブログ的なツッコミ文体--斎藤さん
 ◇「女性一人称」には違和感--川上さん

 安藤 どうやって言葉で間接的なつながりを確保するかという問題なんでしょうね。みんな、自分を知ってもらいたい。でも、直接的なやり取りは避けたい。だからブログで、となる。ネット社会だからこうなったというより、こうした志向がネット社会の文化を作ったのだと思う。

 斎藤 その通り。太宰の文体は相手を直接説得するよりも、ちょっとすねてみせたり、ブログ文体に近いですね。

 川上 安藤さんは、以前、境遇や環境が文学を決めるのではなくて、それを説明する文体やキーワードが文学を決めるのだというお話を書かれていましたが。

 斎藤 井伏鱒二とか昔の作家は、若いうちに苦労をした人が多いわけじゃないですか。でも、太宰は長期間仕送りを受けて、ニート的状況を延長できましたよね。太宰作品は、モラトリアムの産物という気がするんですよ。せっぱ詰まっていたら、もっとタフな、坂口安吾的な感じになったんじゃないでしょうか。

 安藤 たとえば川端康成を決定したのは孤児の環境だとか言うけれど、別に同じ境遇の人が、皆同じものを書くわけではありませんよね。だから、原因探しをしても始まらないのではないかと。結局は自分にまつわる物語をどういうレベルで作るのかという、言葉の問題だと思う。斎藤さんは、引きこもりについて「原因探しをしてはいけない」とおっしゃっていましたが。

 斎藤 問題はある環境の下ではぐくまれる関係なんです。ところで、ニートが「勝ち組」に向ける意識は、太宰と志賀直哉の対立に近いんじゃないでしょうか。堂々とした人に絡みたくなる感じが。

 安藤 『風の便り』は、しがない中年作家と大家との往復書簡ですね。大家のモデルに志賀直哉を想定すると面白い。志賀の存在はある意味、文壇では決定的だった。若い作家は、彼の作品を正座して写して小説修業をしていたわけです。ちょっと、今となっては分からない感覚ですが。

 川上 そういう確固とした絶対性を、太宰は好きなんだけれども「不愉快だ」とか文句を言うんですよね。

 斎藤 最後、川上さんにうかがいたいのは『きりぎりす』や『女生徒』など女性一人称の小説について。男は「女性が引き込まれる文体なんだろう」と思うわけですが。

 川上 それ、幻想です。

 斎藤 幻想か(笑い)。

 川上 もちろん下手とは思わないですが、どう考えてもおじさんの文体で……。『斜陽』の冒頭なんて、(お笑いコンビの)ダウンタウンのコントみたいで面白いんですけど。ダメになる男とツッコミを入れる女性の構図は、すてきだと思うんです。女性視点というより、視点が二つある。でも、もう一つの視点は、親友の男の人でも全然いい。感嘆するのは、女性の語りだからではないんです。でも当時は、女性としての語りの巧みさが評価されてたんですよねえ……。もちろん男性から。

 安藤 ひところは、「女性以上に女性らしい」と論じる人たちの女性像に、偏見がありました。でも、「自意識系のはしか」の話と同じで、時代は一回転しているのかもしれない。

 川上 ひょっとして私も今、改めて『女生徒』を読めば、「すごく女の人の気持ちが分かっている!」と思うのかもしれませんね(笑い)。

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 ◇太宰治(だざい・おさむ)
 1909年6月19日、青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市金木町)で大地主・津島家の六男として生まれた。本名・津島修治。坂口安吾、織田作之助らと並び「無頼派」と呼ばれ、代表作に『晩年』『走れメロス』『お伽草紙』『斜陽』など。

 学生時代から自殺・心中未遂を繰り返し、『人間失格』を書き上げた直後の1948年6月13日、東京都北多摩郡三鷹町(現在の三鷹市)の玉川上水で女性と入水自殺した。作者の自意識が見え隠れする文体は、人間関係の希薄な「ネット社会」を生きる現代の若者を中心に読まれ続けている。

毎日新聞 2009年1月6日 東京夕刊

by ichiro_ishikawa | 2009-01-13 00:15 | 文学 | Comments(0)  

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