わかりません

 
 先週から池田晶子の新刊(!)を読んでいるが、まだこんなに単行本未収録原稿があったとは。とはいえ、書いている事は他と同じなのだけれど。ただ、「在る」の不思議について、ひたすら書き続けた池田晶子であった。今回は、「群像」1992年10月〜12月号に掲載された「センチメント」と題された短文が気に入った。小林秀雄を思わせる。

 池田晶子を読むためには眼を瞑る必要がある。眼を瞑っては字が読めないから、たまに開けなければならないのだが、開けて字を追っていては、実は読めないのだった。だから読んで、眼を瞑って、じっと考える。そして、考えられている「それ」を「感じる」。そのためには、どうしても眼というレンズに投影されてしまう外物が邪魔になる。文字でさえ。
 そしてその「感じられる」「それ」が何かを「考える」。そうすると、やがて、気持ちのいい眠りが来る。

 本に答えを求める人は多い。それは自分に都合のいい言葉を発見して喜んでいるだけで、答えは実はあらかじめ分かっている。そういうものに俺は惹かれない。実用書に成り下がった小説や、処世訓にすぎない詩などには、用がない。素直に実用書や日経ビジネスを読んだ方が手っ取り早い。
 本当の小説、詩とは、文学とは、そうじゃない。じゃあなんだ? わかりません。
 保坂あたりがその辺の事について、きちんと弁明していたはずだが、すぐ出ない。探すのも面倒だ。いずれ出よう。

 池田晶子の著作に、そこに答えがあった事は一度もない。いわば、その著書は「わからない」ことの表明だ。だからこそ、その分からない、その当のものが何かを俺は考える。考えるヒントは豊富に残されている。

by ichiro_ishikawa | 2009-03-03 02:29 | 文学 | Comments(0)  

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