エセー「ロック」


 先日、シャボ用で社会的地位がすげえある人にある話を聞く機会があった。特に名を秘すが、有名大学の教授で物書きだ。あるテーマで話をしてもらったが、思索が深く、かつひとつひとつが横にすげえ広がる。でも軸はぶれてないから全体として広く深い壮大な読み物を読んでいるみたいなトークだった。しかも3時間喋りっぱなし。さすが教授でベストセラー作家だと感心した。
 だが、ガツンと来なかった。
 しょせん大学の先生だという感慨のほうが、感心にまさった。要は、テキストをいろいろな角度から、かつ深く読んでいく、その読みの鋭さと深さを見せ付けられ、参考文献をたくさん紹介され、というまるで大学の授業を聴いてるみたいだった。勉強にはなったが、家でドストエフスキイとかを読んでクワッと覚醒する感じとは全然違う。ズバリ、ロックじゃなかった。まあ、大学の先生だし、そもロックを目指していないから、当たり前で、こちらもそこを求めていたわけでは全然ないが、結果、ロック以外の部分が完璧であったために、ことさら、ロックというものが浮かび上がってきた形となった。
 綺麗にロックが微塵もなかったため、ロックであることを周到に裂けている気さえするほどだったが、実は避けているのではなく、その人が持っているそれは、根本のところでロックと質をまったく異にするものなのだ。あれが、少しでもロックっぽければ、彼の完璧さは瓦解する。とはいえ、その心配には実は及ばない。彼が目指す方向を練磨すればするほどロックとは遠く離れていくからだ。
 あっちの才能があれば、誰だってあっちを目指す。ロックであることは、ある一面でとても不幸なことだからだ。ある意味、哀しくてやりきれない。哀しみに浸って悦に入っているのではない。そんなド・マゾヒシズムはない。この哀しみから逃れられるならば、ロックなどとっとと捨ててしまいたい。
 小林秀雄のあの感じはまさにロックだ。何かがまず全的に直覚されていて、感じたところから推測するだけでは不十分で、推論したところが感じられる様に工夫するというあれだ。彼は、超教養の高いインテリゲンチャからバシバシ批判もされるけど、ロックである以上、そこはそうなってしまう。俺は小林秀雄を読むと、何かをすごく我慢しているのを強く感じる。その精神の強さに打たれる。

by ichiro_ishikawa | 2009-11-17 02:59 | 文学 | Comments(0)  

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