モノローグ「T.UTU & グッド・フェローズ」


 毎日書いていると書く事がないこともある。だが、やる事がないのでこうして書いている。いや、やる事はある。いや、やっぱない。あるけど。
 だが、何かしら心に去来する事はあるわけだから、素材の善し悪しを別にすれば、何かしら書く事はある。書くという行為自体が目的なのだった。戯曲形式は楽で量産がきくが、あまりやると飽きられる。手を替え品を替えいろいろな形式を試すのだが、それ自体もまたいい目的となりうる。
 たまには、精神でうごめくあれやこれではなく、周りにある物質を片っ端から描写していくか。俺が最も苦手とする分野だ。やっばり苦手な事はやめよう。そも不要だ。こういう精神不安定な状態はいつまで続くのか。不安と恐怖。この月並みな嘆きはいつ終わるのか。他者にもすげえ迷惑をかけている。友を4人失った。
 ホームページによると、21日だという。月並みな嘆きなだけにいくつも事例があり、既に統計が出ている。てことはそろそろだ。それまでじっと我慢の子だ。それに一人の人間のハイ&ローの総量は一定なはずだから、この21日間を乗り切れば、当分やってこないに違いない。
 こういう時、俺は同じ鬱仲間がいればいいと思う。鬱仲間が二人三人集まって、ただひたすらどよーんとしている。最高だ。だが、鬱な野郎というのは一人閉じこもっているのが相場だから、めいめいがめいめいの鬱を送っているのだろう。だから、街では出会わない。俺らは街に出ないのだから当然だ。
 それでも鬱仲間は欲しいとすれば、どうするか。答えは分かっている。ニーチェとかゴッホとかあの辺の気違いピエロらと交わる事だ。ページを繰ればすぐに彼奴らはやってきてくれる。死んだ人というのは素晴らしい。
 ドの字に「地下室の手記」という、俺が25歳の時に捨てた本がある。開いてはいけないパンドラの箱を俺は今、開けてみる。25歳と言えば、今、俺は25歳に戻ってしまったような気分だ。あのときは、月10日は鬱だった。今、極めてあのときと似ている。だが端から見た印象が違う。青年期の鬱は恥ずかしいだけだが、老年期の鬱は哀れだ。なんて月並みな嘆きは本当にやめにしてドの字の話だ。
 こうしてパラパラとページを繰っていくと、いいところが折ってあったり、線が引いてあったりして、そこは今読んでもやはりいいと思った。俺は進歩していないのだ。書き込みはちっときつい。読めない。そこは見ない事にする。この短編の主人公は、ある日、酒宴で間違った時間を知らされ、さんざん一人待って始まった宴の席でも話をしてくれるものは一人もおらず、かつさんざんバカにされまくって、一人で悶々としながらも帰れずにいたが、いよいよ意を決して、酒瓶をみんなにぶつけてやろうとする。
「<さあ、いよいよみんなに酒壜でもぶつけてやるか> ふとこう思って、ぼくは瓶をとりあげ、そして……自分の杯になみなみと注いだ」
 こんな場面でニヤニヤしてしまっている自分のひどさに気づけるのが、中高年の強みだ。鬱仲間となれ合うのは確かに重要だが、いつまでも甘えてはいられない。
 ニーチェの超人思想をちょっと辿ってみようと思う。ニーチェは基本独り言を言っているだけだから、互いに独り言をつぶやき合おう。ニーチェは独り言なのにたまに、「〜だ!」とか言ってしまう悪い癖があるが、今はそれが愛おしく思える。
 深夜に何かを書くと、どうしようもないな。

by ichiro_ishikawa | 2009-11-19 01:33 | 日々の泡 | Comments(0)  

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