引用「クる言葉」


 病者の光学(見地)から、一段と健全な概念や価値を見て、又再び逆に、豊富な生命の充溢と自信とからデカダンス本能のひそやかな働きを見下すということ−−これは私の最も長い練習、私に特有の経験であって、もし私が、何事かに於いて大家になったとすれば、それはその点に於いてであった。


 現代人は例へばAばかりを考へあぐねた末に反対のBを得るといふ風な努力をしない。さういふ迂路と言へば迂路を辿る精神の努力だけが本当に考へるといふ仕事なのだが、さういふ能力を次第に失ひ、始めからAとBと両方を考へる、従ってもはや考へない。(中略)芭蕉は不易流行を言つたが、周知のやうに、両方に脚を突つ込むといふやうな易しい説き方はしなかつた。問題はそれらの源にある風雅といふものを極むるにあつた。この古風な文学論は少しも古くなつていないやうに思ふ。


 詩人はある考へを詩で述べるのではない。又、ある一つの考へを言葉でどうにでも言ひ現すといふ様な事をしているのでもない。ある動かすことの出来ぬ詩といふ言葉の建築を作るのであつて、彼の考へとは、その建築の姿そのものに他なりませぬ。


 藝術家といふものは、決して自由な人ではない。常にどうにもならぬ制約と戦つている人間です。更に言へば、その戦のなかに、眞の自由を発見している人間です。


 表現以前にある個性といふ様なものは、全くの空想である。藝術家は、材料と取り組み、己れを空しくしてある形を作り上げてみて、はじめて己れの個性といふ様なものが、出来上がった形に現れるのを悟るものです。その現れたものが最初にあつたのではない。


将来はああであらう、こうであらう、或いはかういうやうな理想、希望を持つといふ事は易しい事だ。けれども実際自分の眼の前にある事態のなかに将来の萌芽が、ちらちらと見える、さういふ萌芽が見えるまでぢつと現在の事態を眺めている人が稀なのです。


 不言実行といふ言葉は誤解されている。お喋りは退屈だとか唖は実行家だとかいふ意味ではない。言はうにも言はれぬ秘義といふものが必ず在るので、それを、実行によつて明るみに出すといふ意味である。


 本当の文學者はものが複雑に見えて、微妙に見えて仕方がない人種です。言葉の濫用なぞ思ひもよらぬ事です。「言絶えた」物が見えている。これを現すには、たつた一つの言葉しかない。それを捜している人間です。喋つてみても駄目、議論してみても駄目、これしか他にはないといふ言葉だけを集めて、作品を創る。さういふ行為によつてしか解決できぬ課題を常に抱いている。さういふ人種です。

by ichiro_ishikawa | 2009-11-20 22:41 | 文学 | Comments(0)  

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