エセー「辺境人 1」


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「世界標準に準拠して振る舞う事は出来るが、
世界標準を新たに設定する事は出来ない」

 小林秀雄賞作家、内田樹が、日本人を辺境人として定義し、その特徴を挙げている本で、まさに、と深く納得してしまう言質が続く。
 政治、官僚、財界、メディア、教育、文化、スポーツ、すべて日本はダメだ。とは皆がしたり顔で言う。どうダメかというと、他国と比べて劣るから、という論理だ。それだけだ。学ぶべき見本は常に外部にあり、それと比べて相対的に劣位にある日本。では、どうすればいいか。他国を学ぶこと。やはりそういう結論になる。そういう結論にしかならない。ところが、この学ぶ事が日本人はたいそう得意である。追いつこうと努力することができる。ただ、抜かす事は出来ない。決定的に出来ない。なぜなら、抜かすためには、新たな世界標準を作り出さなければならないから。新たに独特で普遍的なものを創造する、ということが日本人はどうしても出来ない。

 そう述べる本書は、だから日本人はダメだというのではなく、こういう世界に類い稀なこの辺境人としての日本人が、その特性を生かして何ができるか、ということを論じている。
 しかし、面白いのは、本論であるそこでなく、前述した序章の部分。辺境人としての日本人の定義だ。日本人のきょろきょろする特性、真似は得意だが創造が致命的にできない、という端的な事実の証明の部分だ。それがいいか悪いかは兎も角、そうした辺境人という日本人の現実を直視する、ということがここでは一番重要だ。日本人は面白い。変わっている。その認識の上で、次にどうするかは、それこそ、この本を読むのではなく、手ぶらで考えなければならない。お手本はお手本でしかない。お手本には近づけるが、追い越せない。新しいものは創造できない。

 俺も、そうした典型的な日本人だが、手ぶらで考える、という事を習慣にはしている。別に世界標準を創造する日本人の出現を待っているわけではないし、ましてや自分がそうしたいわけでもできるわけでもないけれど、そこを意識するのとしないのでは、庶民であれ、何をするにも、その生き方が根本から変わってくる様な気はしている。

by ichiro_ishikawa | 2009-12-20 22:06 | 文学 | Comments(0)  

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