原罪実話「遅刻と私」


 キリスト教で原罪という概念があるが、その罰としか考えようの無いものが、私においては具体的な形をとって眼前にしばしば現出する。簡単に言えば、私はかなりのハンデを背負わされて生きている、という事になろうか。腹とドタマが「常時」うすらいてえというのは最早有名になり過ぎているが、何か行動を起こすたび、それがいかに些細なベイビー・アクションでも、たいてい、幾ばくかの不幸がまぶされて、私はそれらの事に処す羽目になる。

 昨年暮れの天皇誕生日、私はのっぴきならない事情で、午後2時に新宿のとある場所に行って人と会う約束があった。詳細は伏すが、まさにこういうのを絶対遅刻できない約束という、そういう類いの予定だった。前日の就寝前は、その遅刻できなさの度合いに緊張しながら慎重に逆算し、最寄り駅であるJR中央線武蔵小金井駅「13:06発の東京行き快速電車に乗る事」が、遅刻しないぎりぎりのラインであることを突き止めた。中央線は結構遅れることで有名なので、12:30ごろに駅に着けばまず安心、そのためには12:00に起床、ただし、2度寝や忘れ物といった何らかのアクシデントが起こりうる、いや大いに起こりうる、ということも見越し、11:30に起きることに決めた。

 その日、目覚めたのは12:45だった。私は努めて冷静になり、瞬時に判断を下した。
 ギリの線である「13:06発の電車」には乗れる。11:30起床は相当のサバ読みだったのだ。
 ものすごい勢いで身支度を済ませ12:55に家を出た私は、テンから全速力で飛ばした。何せ徒歩20分の距離を10分で行かねばならぬ。途中の坂、向こう正面でもぐいぐいと疾駆し、各コーナーでは内うちをロスなく回り、最後の直線も失速することなく、後続を7馬身突き放して駅に駆け込んだ。時計を見やると13:06。ギリだ。改札で磁気定期券を挿入・取り出していては時間を食いすぎる。せっかく定期があるにもかかわらずSUIKAを取り出した私は、減速せずにタッチして改札を抜けると、エレベーターを五段抜かしで上がって行った。上りきらんとした辺りで、まだ電車が到着すらしていないことが分かり、私は勝利を確信した。

 うっすら汗をかき、脚が若干プルプル震えていたが、息切れは軽いもので、そんなに苦しくもない。学生時代、短距離・長距離いずれにおいても学年で5本の指に入っていたのはだてではなかった。時間はまだ13:06。ホームで呼吸を整えていると、電車が来た。心なしか、スピードが速い。「結構な勢いで入線してくるな…」と思っていたら、なんと、電車はそのままぶっちぎって通過して行った。
 おや? おかしい。まさか私が前日想定していた電車は青梅特快か…? いやそんなはずがない。止まらない電車の時刻が時刻表に記されているはずが無い。あ、休日ダイヤか…? そういやそこには無頓着だった。おそるおそる時刻表を覗き込むと、13:06は土日欄にも記載。しかも無印。つまり普通の東京行きの快速。途中の中野までは各駅に停車する電車だ。ではなぜ…? と訝っていると、アナウンスがなった。
 「13:06発の快速東京行きの電車は、誤って当駅を通過してしまった為、只今停車し、バックしています」

 何を!? 誤るなよ! 武蔵小金井バカにすんなよ、気緩め過ぎだよ! しかも休日の昼下がりだからどうせそんなに急いでる奴いないし〜とか思ってんのか! こちとら1年に1回あるかないかの遅刻絶対厳禁の用事を抱えてんだぞ! それにいいよバックしなくてよ、次の電車5分後に来るからよ、5分遅刻するけど許容範囲だからよ!
 構内のスピーカーに怒鳴りつけるも、「バックしています」とやや悦に入ったトーンでアナウンスを続けやがる。レアな事態に立ち会っているという興奮でテンションが上がってしまっている。しかも、そのバックしているという電車は、遠目にも全然見えない。5分、10分が過ぎ、ようやく見えてきたが、そこからがさらに長かった。時速2kmぐらいでゆ〜っくりバックしてやがるのだ。おいおい、車の車庫入れじゃねえんだぞ!? 隣の車や壁こする危険ねえべよ! 線路だべよ! グイーンってバックして来いよ! 私の怒声は止まなかった。
 30分後、やっと到着。だが、今度は扉が開かない。しばらくして奴は言い放った。
「停車位置を調整する為、少し前に進みます、危険ですから離れてください」。
 おい。この期に及んで几帳面かよ! いいよ1mぐらいずれてたってよ、大勢に影響ねえよ! さっきはものすげえ大胆に通過して行った同じ人間かよ! 「大胆にして繊細な俺」アピールか!? 誰に!?

 時刻は13:45。40分は遅刻すること確定だ。
 やっとの事乗車できた私は、車中、約束相手にこの事実をそのまま話して遅刻を詫びるべきかどうか考えていた。私は、常日頃から、こういうリアルで地味な作り話をちょくちょくしているため、オオカミ少年的に疑われる危険を孕んでいた。40分待たされた先方はただでさえいらついているはずで、そのいらつきの流れで「言い訳するちっちぇえ奴」というレッテルを貼ってきかねない。いっそ「寝坊しました、申し訳ありません」の方が潔くないか? しかし寝坊する38歳独身というレッテルもかなり致命的か? あるいは、40分なぞ遅刻ではない、ぜんぜん範囲! と言わんばかりに全く悪びれることなく威風堂々と振る舞うか。

 結局、賢明な私は、今うだうだ考えてもしょうがない。その時の相手の顔や空気に従って、その場のアドリブに賭けよう。そう決意を固めた。
 ふと時計を見やると時刻は14:00。約束の時間に、私はまだ荻窪にいた。
 と、相手からメールが入った。
「すみません、今起きました。1時間遅れます」

 この温度差の違いは、そのまま私と世界のズレを象徴しているように思えた。

by ichiro_ishikawa | 2010-01-11 00:38 | 日々の泡 | Comments(0)  

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