珠玉短編「喩えについて」


 賢者の言うことは喩えばかりだ、日常の役に立ちやしない、自分たちの生活は変哲もない日常ずくめだというのに、と多くの人が不平を鳴らす。たとえば賢者が言うとしよう。
「かなたへ赴け」
 道を渡った向こうにという意味ではないのである。道を渡るだけならば、いつでもできる。渡りがいのあるものならば渡りもしよう。だが、賢者の言う「かなた」はそうではない。それがどこなのやら誰にも分からず、詳しくは話してもらえず、だからして何の役にも立たない「かなた」である。本来、この種の喩えは、伝えようのないものは理解できないことを伝えているだけかもしれない。だが、そんなことなら私たちはよく知っている。自分たちが毎日のように苦労しているのは、もっと別のことである。
 これに対して、ある人が言った。
「何故さからうの? 喩えどおりにすればいい。そうすれば自分もまた喩えになる。日常の苦労から解放される」
 すると、もう一人が言った。
「それだって喩えだね。賭けてもいい」
 先の一人が言った。
「賭けは君の勝ちだ」
 あとの一人が言った。
「残念ながら、喩えのなかで勝っただけだ」
 先の一人が言った。
「いや、ちがう。君は本当に賭けに勝った。喩えのなかでは負けている」

『カフカ短篇集』所収「喩えについて」 岩波文庫630円収録)


 この小編はいろいろな文献をひも解くと、他のカフカ作品同様、難解とされているが、カフカの作品で難解なものってあるだろうか、と私はいつも訝る。確かに一筋縄では行かないが、文学とは一筋縄でいかなくてなんぼだろう。日常に照らし合わせてその文脈に沿うものを「分かる」、そこから逸脱しているものを「分からない」というならば、優れた文学ほど「分からない」のは当たり前だ。日常といきう現実に切り込み見えざるものを浮かび上がらせ、新たな地平を見せることが目指されているのだから。本作は、そういうことをまさに「作品として」表している文学者の面目躍如たる作品だ。

by ichiro_ishikawa | 2010-01-12 01:31 | 文学 | Comments(1)  

Commented at 2010-01-12 23:43
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