池田晶子「事象そのものへ!」再読


「闘争のエチカ」
「世界へ向ける視線を闘争に向けて鍛えよ」
「時代と対峙する、から、時代と戯れるへ」
「ヘーゲル的世界観が崩壊」
「マルキシズムが終焉」
「思想の最前線」

 このような物言いに、直感的に違和感を覚えていた矢先の池田晶子の登場だった。
 90年代に大学に入り、後追いで80年代のいわゆるポストモダンなる「新思想」の潮流をさらっていた。「いま、知がおシャレ」「軽チャー」などと、「考える」事が、ファッションとして流通・消費されていることに、直感的に虫酸が走っていた。変な(シャレた)言葉を編み出して使って悦に入っている。
 
「この種の書物は、なぜいつもこんなふうに勇ましいスローガンとセットになって売られなければならないのだろう」。池田晶子は初期の著書『事象そのものへ!』の冒頭で、こうした知識人へのいらだちを鮮明に表明し、彼らのやましい自己顕示欲を暴き、「真に」考える、という事を、手ぶらで生涯遂行した。学術語を一切排除したその文体は、明らかに、普通の我々、に向いたものであった。

「世界に生起する諸事象を普遍的意識による個別的現象形態として認識し、それら全事象の存在論の、詩的言語による体系化の試み」
と学術用語では言うところを、
「誰もが等しく意識を持っている、これが普遍です。誰もが違う顔をしている。これが個別です。誰もがものを考える、そのことについて考えるのが認識論、誰もが生(ある)と死(ない)との間を漂っている、これを不思議と問い始める事を存在論と考えます」
と、基本的に全編にわたって、このような平易な言葉で丁寧に正確に表現し得ている。ただ、考えられている、それ自体が謎の極致なので、難しいと言えば難しい。これはしょうがない。だが、そうした本質を考えることの面白さ、これを知ってしまうと病みつきになる。
「その謎に驚き、そして知りたいと欲してただひたする考える、その無私の精神の軌跡をできるだけ正確に表すこと、すなわち考えるとは一体どういうことであるかをそこに現れてくる果てしない自由の味わいとともに、日常の言葉で美しく語」り続けたのであった。

 以上、文中の池田晶子を小林秀雄と置き換えても、事実として成立する。
 小林秀雄と池田晶子は、エセ知識人を嫌悪し、大知識人を愛した。同じ事にいらだち、同じ事を、同じ人に向けて、書き続けた。

 1991年に出た「事象そのものへ!」が復刊したので、古本屋で入手して初読した1998年以来、比較的再読する事の少なかった本書を、実に10年ぶりに再読。初出が「中央公論」「文藝」「群像」といった専門誌なので、ある程度学のある読者に特化して書かれた向きはあるが、中期以降の著書を読んだあとにここに戻ってくるとすんなり頭に入ってくる。書かれていることは、全著書同じだが、本書は、全部言ってやる、というような迫力がある。
 ここ最近、古今東西の他の文筆家の作品を読みあさってきたが、ちょっとケタというか、格がやはり違う、と改めて思い知った。

c0005419_2111931.jpg
「事象そのものへ!」池田晶子

by ichiro_ishikawa | 2010-02-08 01:43 | 文学 | Comments(0)  

名前
URL
画像認証
削除用パスワード

<< 隠れた名曲「幸せにさよなら」 突然出版「無敵のソクラテス」 >>