リリー・フランキー「東京タワー」完結

リリー・フランキー「東京タワー〜オカンとボクと、時々、オトン〜」c0005419_13123156.gif
『en-taxi』2005 SPRING、第9号)



 昨日、「オカン」が死んだ。
 とうとう、「子供の頃からボクが最もおそれていたこと」が起きてしまった。
 いつかは起こると理性は知っていた。が、今、ここに、常に脈々と存在し、機に応じて変化し続ける感情というリアルは、それを信じてはいなかった。まったく信じていなかった。
 肉体は自然であり物質であるが、精神は物質ではない。そんな物質と非物質が一体となっている奇妙な存在、人間。物質は朽ちるが、精神はそれに抗う。
 「なんで死んじゃったの?」
 これのどこが子供じみた発言か。科学などがまったく追いつけない、高度で本質的な質問である。「ボク」には、それが、本当に分からない。
 ただ、「オカン」はもういない。残っているのは、骨である。
「ボク」は骨になる前のオカンの死体を抱きしめて眠り、骨になったあと、それをかじりてめえの肉体の一部とした。

「疲れたよ」
「ごめん」
「ありがとう」

 こんな言葉は発語されてはいけないのだ。それが本心から搾り出されたものであればあるほど、僕らはそれらの言葉をグッと飲み込み、どぶに流して捨てる。
 だが「ボク」は、「オカン」が死んだあとに、死んだ「オカン」に対して連呼する。そうした禁句が、堰を切ったように流れて出てしまう。
 生前のオカンには「ありがとう」と言いたくて決して言えなかった。「ボク」は後悔している。だが、もう一度、「オカン」が生き返ったとして、果たして言えるだろうか。

 深い哀しみだけが、そこにはある。それは実に恐ろしく深い。
 「ボク」は、絶望の後に、それでもなお、生きてゆかねばならない。これが悲劇だ。「オカン」は死んだ。それでも「ボク」は生き続ける。
 要は、思い出というやつが厄介なのだ。今後、そうした思い出が、人生のそこかしこで甦ることだろう。その度に「ボク」は嗚咽する。
 なぜに、生きるとはここまで哀しいか。

 「オカン」が「ボク」にくれたもの。それは無償の愛で、オカンの生きざまは愛おしく、「ボク」はそのあり方全体を無条件に肯定したい。だが、その「ボク」は「オカン」に何をしてやれたというのか。
 この小説は、「オカン」という人間を永遠に生かすことに主眼があり、「ありがとう」と決して発語しえなかった「ボク」の最大の「ありがとう」宣言であった。全身全霊を傾けた、最初で最後の、「オカン」へのラブレター。

 人間の真実の心というのは、大好きな人のことをその好きさ加減を余すところなく正確に語りたいと願うもののようで、それがえてして成功しないのは一般によく見られる限りだが、この「東京タワー」では、奇跡的にそれが実っている。この小説、文学の極限が存在した今、「オカン」は今この瞬間瞬間に生きている。そして、私たちは「ごめん」や「ありがとう」とは多分言えないけれど、まだ生きている人への愛と感謝を一層大切に感じ続ける。

by ichiro_ishikawa | 2005-04-04 13:16 | 文学 | Comments(0)  

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