エセー「黒く塗れ」


 私が昔、絵を習っていた事を知っているのは、今執筆中の「本末転倒くん」のラフを見た人なら、さもありなん、とごちるだろうが、何を習ったかは思い出せない。習わなくても上手かったことは確かだ。
 だがひとつ、鮮明に覚えている事がある。
 風景の写生で、木々の色を塗っていたとき、「果たしてそんな色か? よく見てみん」と先生がいうので、よく見てパレット上に色を作り、塗り塗りしていた。当時既に10歳ぐらいで、「葉っぱ=緑」という合理的な知恵が宿ってしまっていた私は、緑ベースで黒を混ぜるというイージーな混色を施していた。業を煮やした先生は貸してみろと言って、人のパレットに赤やら群青色やらを混ぜて行った。「葉っぱなのに赤とか混ぜるつけ!」と意外に思っていたが、実際、何かそれらしくなっていったので、世界はそういう塩梅か…と感心しながら、彩色を続けていた。
 すると今度は、重なる葉っぱの暗い部分に話は移行。先生は「果たしてそんな明るいか?」と、またもやおむづかりのご様子。黒を徐々に混ぜて行くが、どうしても「あの色」にならない。先生は再び人のパレットに黒をブワーッと垂らし、それを筆ですくうと少しだけ赤と緑を混ぜて、画用紙にベタッと塗った。それにより、私の絵はグッと良くなったのを自分でも認めた。「ここ、こんなに黒かったつけ! ほとんど漆黒だったつけ!」。
 絵は春の風景なので陽光やら青く茂る葉っぱ、色とりどりの花や、済んだ空が基調で、全体として明るい絵なのだが、先生の補助のもと仕上げた私の絵は、他の生徒と一線を画す、「本当な風景」の絵になったという充足感があった。それは、葉っぱの赤、そして何より、点在している漆黒の存在だ。全体を見るとその漆黒はまったく目に入らないのだが、それがあるのとないのではリアリズムが全然違っている事を使用前を知っている当人は知っていた。
 以来、意外とすげえ黒が世界には点在しており、その黒が世界を引き締めている、と私は思うようになった。後年、谷崎の「陰影礼賛」に出会い、陰影を礼賛するようになり、やがて、うんと援用して、その黒は、一見「無用」のもの、という抽象概念となり、私の心を巣くうに至った。その無用の価値というものに惹かれた。
 おそらく、ロックとか文学とか映画とか美術という、今でもわりと私が大事に思っている芸術(厳密な意味ではない)というものは、つまり、世界におけるその黒であり、無用という価値で成り立っている。それらは現実の見えない真実を、非現実によって照射する。

 以下、最近読んで感銘を受けた中井英夫「黒衣の短歌史」から抄録。
 
 文学が一度でも「有用」だった試しがあるだろうか。少なくともそう勢ったがさいご、何とも言えぬ微妙な臭いがまつわる

 もともと空しいもの、その代わり限りなく美しいもの以外に短歌の本質があるだろうか。作品の背後で紫色に散る火花の激しさだけが肝心なので、そこに消耗される無駄の多寡こそ作品の良否の岐れ目だ

 心の鬱する日に初めて風景はかがやき、蝕まれた人の瞳孔にだけ春は小さく明るいはずだ

by ichiro_ishikawa | 2010-02-21 03:25 | 文学 | Comments(0)  

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