追憶「13年前のいまごろ」


 私がなぜ卒論で谷崎を選んだかが、どうやら世間で話題らしいので、当人が述べんとす。
 「細雪」と「陰影礼賛」がものすごく好きだったこと。文章がグンバツに素晴らしいので「論文」を書きやすいと思ったこと。技術というのは論じやすいのだ。美文の技術に迫れば、結構やり易いのではないか。この二つの打算だった。

 しかし進めて行くうちに計画は崩れていった。私はいままで38年間計画をまま遂行できた事がない。
 まず、「細雪」がなげえ。規定の100枚じゃ収まらねえ。「陰影礼賛」に特化する事も考えたが、「陰影礼賛」に触れつつ「細雪」を論じるという目論みだったため、応用が利かない、オール・オア・ナッシングな私は、ならばと「痴人の愛」に根本から変更してしまったのだった。
 さらに計画は崩れた。先行研究論文がありすぎるため、それらをすべてコピーするだけで疲れちったのだ。数ヶ月がかりでコピーし終えたものの、それらを読むのがまた苦痛だった。だが、先行文献をすべて読まずして論文は書けない。読むだけで数ヶ月が経ち、すでに時は12月。締め切り月だ。まだ読み切れていない。それだけやっていればまだ良いが、その時私はバイトを5つぐらいやっていたのだ。しかも通常の授業の単位も40ぐらい残っていた。かつ留年2年目だったのであとがなかった。
 ならば、と私は、これまでの読書経験を総動員した「谷崎と俺」的なエセーを書く事にした。いままでの蓄積は何だったのか…と無念を覚えたが、それまで書き溜めていたものを換骨奪胎するというインチキに昇華させ、なんとか締め切りギリギリに提出した。途中から、いや最初から実は気づいていたが、論文なんて書きたくなかったのだ。いや書けないのだった…。規定に沿って何かをやるということができない。今でも。それは無頼なのではなく、規定に沿って何かをやるとその良否の評価が一目瞭然になるので、規定に沿わない事で評価をしにくくさせる、という姑息な小心からくる。

 その後、その論文についての口頭試問があった。これが6年間最後の試験である。
 雪がそぼ降る、今から13年前の1月か2月、私は、研究室に予定を30分遅刻して乗り込んだ。寝坊しちったのだ。
 「申し訳ありません」と深く詫びを入れ、椅子に座るやいなや、教授は言った。
 「コートを脱げ」
 あ、こりゃどうもご無礼を的な弁解をしながらコートを脱ぎ椅子の背もたれにかけると、教授は続けた。
 「貴様はロックとか、我が道を行くとか言うが、郷に入りては郷に従う方がいいぞ」
 ロックロック言ってはいたが、別に我が道を行くなどと豪語した覚えはないし、そもコートを脱がないのが俺流などと思っていたわけではなく、単純に忘れていただけなのだが、その「郷に入りては」のくだりは、妙に説得力があり、「その通り」と、その時、私は深く納得した。
 これは、この遅刻、コートを脱がない、という今起こしたミスだけを指す事ではなく、これまでの自分の態度全体の象徴についての言及だった。
 だが、その言葉の、この腑に落ち加減は13年間、いまだ言葉にできないでいる。この教授は、私に「大学では、本を読むすべだけを学べばいい」「てめえが最も大事にするキーワードというものに自ずとぶち当たるかが勝負」という、今でも私が大事に抱えている2つの事を述べた人物だ。この「郷に入りては」のフレーズは手垢に塗れているが、単純にそういう意味ではないのだった。いや、そういう意味なのだが、その時、一瞬で深く私が思い知ったのは、なんというか、おそらくは、郷に入りて郷に従った事で失われる個性など個性と呼べぬ、自分とは何か、という事なのやもしれぬ。
 「反省してまーす」のスノーボードのあいつが醜いのは、およそ個性などというものから最も遠い、思慮の浅いことこの上ない、上っ面の子供じみた自我が露呈しているからだ。
 話がうんとそれたが、口頭試問だ。

 「貴様のこれ、論文じゃねえな。批評だな。しかも200枚あるな。枚数制限をやぶっているな。かつ、簡易製本してるな。仕様の規定もやぶっているな。つまり学校が出した課題にひとつも答えていないから本当は問答無用で落第だが、文自体はいいのでギリ通す」。
 私は何でもいいから、卒業したかった。「申し訳ありません。ありがとうございます」と謝辞を述べ、その後の質問にもつつがなく答え、なんとか通る事ができた。あとで評価表を見ると「A」だった。あのハゲ、なかなか分かってるな…。俺はその足で、ヨーロッパへと飛び立った。

 その後、旅先で「単位が2足りないから卒業できんぞ」という連絡を受けたのは、以前、書いた通りだ。

by ichiro_ishikawa | 2010-02-22 23:41 | 日々の泡 | Comments(0)  

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