抜き書き「実相観入」


 写生とはsketchという意味ではい、生を写す、神を伝えるという意味だ。この言葉の伝統をだんだん辿って行くと、宋の書論につき当る。つまり禅の観法につき当るのであります。だから、斎藤氏は写生を説いて実相観入という様な言葉を使っている。空海なら目撃というところかも知れない、空海は詩を論じ、「須らく心を凝らして其物を目撃すべし、便ち心を以て之を撃ち、深く其境を穿れ」と教えている。心を物に入れる、心で物を撃つ、それは現実の体験に関する工夫なのである。

 と、小林秀雄が言ってた。斎藤とは茂吉の事。小林と同時代の歌人。
 俺が最近、茂吉の歌論を読んで、なるほど、小林秀雄みたいな事を言うな、と思ったことは、以前書いたが、そういや小林も茂吉について何か書いていたよな、と思い出し、だがあれは文庫ではなかったはずだ、俺に最も親しい文庫なら、茂吉の歌論を読む前に既にその箇所に気づいていたはずだ、すると、ものによっては一読しかしていない全集の中の一つだろうと目星を付け、全集をひっくり返して、見つけたのが上記の文章だ。所要時間5時間。なかなか見つからなかったのもあるが、ところどころで別のものを読んでしまったりで、時間がかかった。まあそれはどうでもいいな。
 いずれにせよ、上記の考えは、小林秀雄の根本をなしているもので、基本的に、どの文章でもそういう事を言っている。そういや、岡潔との対談で、自分が確信した同じ事ばかりを何度も繰り返し繰り返し書いている、そこがいい、と岡を褒めていたが、小林自身もそうだ。
 小林は人の事について書いてばかりいるが、それは自分の事でもあり、要は自他の区別がなくなっているイタコ的文章、すなわち無私の精神に常に貫かれているのであった。

by ichiro_ishikawa | 2010-03-11 00:09 | 文学 | Comments(0)  

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