エセー「弁明」


 環境柄、よく文学の話になるが、人それぞれ趣味嗜好、得手不得手があるらしく、小説が得意な人は詩が苦手、西洋に精通しているが足下の国文学は軽視、村上春樹やサリンジャー、チャンドラーを崇拝していても、古事記や万葉集には疎い、みたいな輩が多いようだ。
 しかるに、俺の場合は、聖書、古事記から水村美苗、川上未映子まで、小説から随筆、詩、思想、哲学、批評と古今東西オールジャンルを網羅しており、一般大衆(愚民)の間では、けっこう感心される事が多い。

 しかし、大海の広さ、深さを一応知っているものの、所詮は井の中の蛙だし、事実、俺がそうしたオールジャンルに精通しているかというと、事情は全く違っている。まず、現代文学では、再読、熟読、精読をしているものは5〜6人しかいない、ラテン・アメリカ文学は2〜3人で素人以下。というのはひとまず置いておいても、それら以外の得意な部分、詩と小説と国文学でも、一度読んだきりというものが殆どだ。

 ただ、小林秀雄と池田晶子だけ、何百回と読んでいる。毎日読んでいる。池田晶子は、全哲学史を一人で手ぶらで射抜いているから、池田晶子だけを読めば、ソクラテスからデリダまで精読、熟考し、さらにその奥深くを歩いていることになるし、小林秀雄なんて人は、それこそ全文学はおろか、科学や哲学まで、相当の「覚悟」で対峙し、そしてなにより実地の生活をこそ最重要視している猛者であるから、小林秀雄を熟読すれば、ランボーやポー、ト翁やドスやん、デカルト、パスカル、ベルクソン(あと100人続く…)を誰よりも深く洞察し、何より、人生についてとてつもなく真摯に自己流に考え抜いているという事になる。

 つまり、俺の言うことは、すべて小林秀雄と池田晶子の受け売りだ。ということを告白しておく。

 だが、彼らは無私の精神だから、彼らが言葉で紡ぐ尋常ならざる徹底された主観、つまり真実は、実は誰のものでもない。むしろ、誰のものでもないからこそ真実なので、俺が、愚民との井戸端会議や床屋政談で「…って小林くんが言ってたぞ」などと、マルシーをつけなくたって、真理なのだから構わないと思っている。つまり、そも、俺の意見でもねえし、という事だ。俺が、地球は回る、と言ったからって、それをガリレオ・ガリレイの受け売りだ、と言うのはおかしいだろう。そういう事だ(ガリレオ・ガリレイって言いたい、というのなら、話はまた別)。だから、俺を小林秀雄のエピゴーネン呼ばわりしたり、JASRACに申請しろなど、責めたりするべからず。

by ichiro_ishikawa | 2010-04-09 01:04 | 日々の泡 | Comments(0)  

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