返信「文学と人生」


 最近、文学とは何か、という質問を投げかけられることが増え、その都度、ロックと答えるが、どうも腑に落ちていない輩が多いので、ここに改めて答えんとす。

 文学は、事実との対応を要求されず、従って現実の役に立つようでいて実は本質的には役に立たないものであり、というか現実の役に立つ立たないはまったくその眼中になく、ある種の「真実」を述べることだけを目指している、ということは経験的に多くの人が知っていることだろう。真実という言葉の響きがなにやら新興宗教めくのなら、「ほんとうのこと」とでもしとく。文学は、特に、人生のほんとうのことを、あぶり出す。学問中の学問である。現実の役に立つことを最大の目的にしている社会という場所に不向きであり、つまり就職に不利。文学をやるかやらないかとは、何を価値とするか、という人生の覚悟が問われる。
 
 日々、人の世で障害にぶちあたりながら生きていると、正解とされたものに対して常に違和感を持つことだろう。なんかちげえ…。でもその何かはうまく言えない。定義できない。そこで、その何か違う感を肯定し、そういうことってわけかい、と納得させてくれるのが、俺にとっては文学であり、つまり高尚趣味でもない、ブンガクなどいう日和見商品でもない、貴重な、価値ある何か、なのである。

 実にいろいろな作家が文学とは何かについて書いているが、俺が好むのは、夏目漱石「野分」という隠れた名作だ。書き出しはこうだ。
 「白井道也は文学者である」
 この手の幼稚とも思われかねないシンプルな物言いを書き出しに持ってくることは、「吾輩は猫である」を初め、漱石には結構多い。だが、この「野分」の書き出しは、「猫」とは全く違う、シンプルさを持っている。幕が開いた瞬間の空気が違う。「猫」は冒頭、笑みがこぼれ、なにやらワクワクするが、「野分」には、いきなり眉間にしわが寄っているギスギスした緊張感を感じる。「野分」は、白井道也を通した漱石の「俺と文学」という覚悟の表明だ。

 世へ不満たらたらの未熟な文学青年の高柳くんに、肝の座った白井道也はこう言い放つ。
「金がなくって困ってるものは、困りなりにやればいいのです」
「勢力をとられてしまったら、他に何もしないで構わないのです」
「だって、あなたは文学をやったと云われたじゃありませんか。それならいい訳だ。それならそれでいい訳だ」(←名言)

そして「文学はほかの学問とは違うのです」と、続ける。
「文学は人生そのものである。苦痛にあれ、困窮にあれ、窮愁にあれ、凡そ人生の行路にあたるものは即ち文学で、それ等を嘗め得たものが文学者である。文学者と云うのは原稿用紙を前に置いて、熟語字典を参考して首をひねっている様な閑人じゃありません。円熟して深厚な趣味を体して、人間の万事を臆面なく取り捌いたり、感得したりする普通以上の吾々を指すのであります。その取り捌き方や感得し具合を紙に写したのが文学書になるのです。だから書物は読まないでも実際にそのことにあたれば立派な文学者です。従って他の学問が出来得る限り研究を妨害する事物を避けて、次第に人世に遠ざかるに引き易えて文学者は進んでこの障害の中に飛び込むのであります」

by ichiro_ishikawa | 2010-05-13 23:32 | 文学 | Comments(0)  

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