エセー「印鑑証明と俺」


 地球との相性の悪さで有名な俺だが、こと官公庁が絡む場面でそれは如実に表れる。

 ある事情で印鑑証明が必要となり、ということはまず印鑑登録をせねばならぬ、という状況に陥った。

 まず、役所というのは平日の朝から夕までしかやっていない。俺は月給取りの勤め人だから平日は夜しか動けない。役所に行けるヤツは自由業を営んでいる者だけだろう。月給取りは、役所に行きたければ会社を辞めなければならない、というのがこの日本のシステムだ。
だが、大半は月給取りなわけだから、役所の類は、本来平日夜と休日にこそ開くべきだろう。書類を取りに行くたびに会社を辞め、再就職するなんて馬鹿げている。

 という大前提の政府への提言はひとまず置いておいて、出勤一時間前に家を出て、一時間で事を処理するという無難な方策をとることにした。この時点で、すでに不服だ。

 提出締切日まで一週間ほどあったが、早めに処理しておこうという腹から、毎晩、通常の起床時間の一時間前にケータイのアラームをセットするも、毎回、「ねみいな…、明日行けばいいか…」と、予定を変更する、という朝が何日も続き、ついに最終日になってしまった。

 最終日、いよいよ今日はグワッと起きねばならぬ。という日に限って、緊張して寝坊。しかし危機ほど冷静になる俺は、提出先に連絡し、「果たして今日はどれだけ最終か?」と質した。
すると「本当はダメだが、まあ明日でもなんとかならんでもない」。大抵最終とは名ばかり、という世の慣例通りだった。

 翌日、一時間前に家を出ることに見事成功。役所に直行した。
 かつて、やはり印鑑登録をしようと思ったとき、印鑑が欠けていたため受理されなかったというアクシデントに見舞われた経験がある俺は、欠けていない別の印鑑を家のどこかから探し出し持ち出してきていた。こういうのを用意周到という。
現場ではつつがなく書類を書き終え、欠けていない印鑑を押し、窓口に提出すると、身分証明書を出せと言う。保険証でいいですかと問うと、「否」。免許証かパスポート、顔写真入りの官公庁の発行したものしかダメと言い張る。こういうとき役所はかなり頑な、という事は、これまでイヤというほど思い知らされていた俺は、「じゃあいらない」と、役所を後にした。

 免許はそも、ない、パスポートなら家にある。だが、家に帰ってはゴトシに間に合わない。
 俺は、提出先と再度コンタクトを取り、「果たして、明日に延ばすと人が死ぬか?」と詰問。「死なないが、契約は無効になる」と、敵も然る者、足元を見やがる。この契約が無効になるといろいろな事がイチからやり直しになるのだった。「明日朝すぐ取って、その足ですぐ渡せばいいのでは?」。「しょうがない」。先方は折れた。

 翌朝、一時間前に家を出た俺は、パスポートを握り締め、役所に直行。しかし書類に印鑑を押す段になり、事故発生。
印鑑がねえ。
先日、役所を後にし、そのまま向った仕事場に置き忘れていたのだった。やはり、一つの事を得るためには一つの事を失わなければいけないのか…。鞄には、欠けた印鑑ならある。「ままよ」と、それを出すと、案の定、「欠けててダメですね」。しまった、5分ロスした。

 危機ほどいよいよ冷静になる俺は、印鑑を買えばいいというアイディアを導き出した。iPhoneで文具店を検索。数十メートル離れたところに最寄店がある。すかさずgoogle mapを起動させ、住所を入力、検索。目的地までまっしぐらに向った。「ごめんよ!」と入店するやいなや、印鑑が並ぶ回転ラックをぐるぐる回して、てめえの苗字「石川」を目で検索。こういうとき無難な苗字は助かる。ないことはまずない。だが、ずらーっと判子が並ぶ中、なんと、「石川」だけない。
 「おいおばちゃん、石川がないよ!」
 「ああ、品切れだねえ」と気のない返事。仕方がない、隣の500円高いラックを調べると、なんと、ここも「石川」だけ空席。最近石川が連続で来店したな…すぐ補充しとけよ…。という文句は一切言うことなく、「ばばあ、近くに文具店は?」。「四つ角を左に入ったところにある」。

 ゴトシに遅刻するという焦りから、ダッシュで次の文具店に向う。石川がないというのは実に稀有な不運、しかし、2店連続でないことはまずないだろう。そう踏んだ俺は、四つ角を左に入った。
見つかった「日進文具店」は、シャッターが降りていた。
開店は10時から。そっちか…。そっちの不運か。ありうる、それは悲しいかな、ありうる。

 俺はもはや全速力で、ちょっと遠い大型文具店へ走っていた。印鑑を入手するのにこんなに骨が折れるとは。やっとのことで、なんとかゲットすると、全く逆方向の役所へ全速力で走る。ヘッドフォンはずれ、もはやDJのように首から下がっている。トミー・フラナガンのピアノが首元からかすかに響く。

 役所に入り、番号札を取り、待つこと5分。てめえの番号が呼ばれると同時に、印鑑、書類、パスポートをブワッと差し出し、「印鑑登録&証明を!」と依頼した。10分以内にここを出ないと遅刻が確定する。「急ぎお願いします!」と俺は懇願した。
 だが、俺の担当になった役所員、障害がある女性で、申し訳ないが、発せられる言葉がよく聞き取れない、そして彼女自身、上手く字が書けない、というか、すげえおせえ。しかし、そこで「早く!」など急かすような野蛮な俺じゃない。「別の人に!」とも言わない。これはしょうがない。この人は悪くない。この人でいい。否、この人がいい…。

 俺は穏やかな心持ちで口笛を吹きながら発行を待ち、10分後にやっともらえた証明書を笑顔で受け取り、掲示板などをチラと眺める余裕の態度で役所を出た。
外は、小雨がそぼ降ってきた。傘がない。遅刻は確定。だが、駅までの道中も、「おばちゃん、儲かってる?」などと声をかけつつ、のんびり物見なぞしながら、俺は商店街を闊歩していた。
 地球との相性が悪いのか、俺がドジなのか。相性が悪く、かつドジなのか。否。おそらくは、やはり原罪を贖っているのだろう。これはしょうがない。

by ichiro_ishikawa | 2010-05-26 12:12 | 日々の泡 | Comments(2)  

Commented by おいこらお嬢ちゃん at 2010-05-26 23:29 x
「果たして、明日に延ばすと人が死ぬか?」からギアがトップに入った。
39年間ドジでかつ何も用意していないだけという、相性はあまり関係ないこのてのエッセイすげえおもれー。
Commented by ichiro_ishikawa at 2010-05-27 22:54
後日談

先に提出していた書類に押した印鑑と今回の印鑑証明の印鑑が違うため書類、受理されず。
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