ミッドナイト論考「本はなくならない」


 本が売れなくなった、これからは電子だ、としたり顔でぶっている出版関係者がよくいるが、そういうのは大抵、出版でなくてもテレビでもレコード会社、広告でも「業界」なら何処でもよかった、80年代就職組(40半ば〜50代前半)、つまりバカだ。そも、自分が読書人でないから、本への愛着はないし、本の価値がわからないので売れるか売れないかでしかその価値を測れない。
 本が売れないのは、あくまで相対的な話で、いつの時代も一定の読書人はいるのだし、そも、その総数は、学校のクラスでひとりか二人しか本を読んでいるやつはいなかったように、極めて少ない。だが、そういう人の読書欲というのは衰えを知らないから、常に一定数の本は、それが「価値」がある限り、売れているのだ。実売数が減ったのは(例えば80年代、文庫は初版4万スタートだったらしいが今は数千)、読書人ではない浮動票があっただけで、それを常態としたビジネスモデルを組んでしまっている大手出版社は、この不況で右往左往してしまうのだ。本を読む人は、クラスでひとりか二人という、原点を見つめれば、本なんて1000〜2000部しか売れない。つまりビジネスにするには、人件費を筆頭に原価をギリギリまで削ぎ落とした小さな精鋭集団でやるしかない。金を儲けたい人は、もっと別の仕事をやればいいのになぜか、読書人でない出版人に限って出版人を自負してその椅子にしがみついているから不思議である。
 本の出版は文化事業で、人格を陶冶する本当に価値あるものを作る審美眼と信念が必要で、さらに意欲的ならば、クラスでクラスでひとりか二人の本読みの絶対数を、その価値の絶対において増やそうとする、志と熱意に負う所がすべてだ。そうした読書人は、生活のために本を読むのではないので、消費者ではなく、本も本質的には商品ではない、という事実をきちんと捉えられている人だけが出版を支えることができる。もちろん本を作って、世に宣伝、頒布、そして著者に継続・集中的に執筆に専念してもらうためには資金が必要だから、本は売れなければならないが、売れる唯一の理由はその内容の価値なので、まず売れる内容を考える、というのは順序が逆、何より価値ある内容のものを作る、ということが、まず第一に考えられなければいけないのだ。極端に言えば、価値あるものを作って世に出せれば、あとはどうでもいい、という潔さ。一定の読書人は間違いなく買うのである。ただ、この間違いなく買う、という確信は、作り手がやはり同じ読書人でなければ得られないものなので、それは、結局、「てめえが読みたいものを作る」ことに尽きるのであった。

 電子書籍を買う人には、読書人もそうでない人もいるだろうが、本を買う人は、いよいよ読書人だけになるだろう。つまり正常に戻る。そう考えた方がいい。電子書籍は漫画やライトノベルは繁盛するだろうが、文学のようなものは絶対に発展しない。ただ読書人でなくとも本に接する人の数自体は増えるから、そこに勝機が見えよう。つまり読書人向けの本は、電子版を宣伝ツールと見なすのが正解だ。無料で全文、ばしばし電子化した方がいい。目に触れる機会をひたすら多くする。「価値」あるものは、必ず再読を要請するから、それは手に触れられる物質としての本へと必ずや導かれる。これまでと宣伝方法ががらりと変わる機なのだ。電子書籍は本の代価品ではなく、宣伝ビラの様な性質ものだ。しつこいようだが、一定の読書人は不滅で、彼ら彼女らは宣伝されようがされまいが、各々の読書歴が誇る嗅覚で嗅ぎ付け、売れていようが売れていまいが、やはりそれぞれの読書歴が保証する信念に基づいて購読する。電子書籍は潜在的な読書人を掘り起こし、真の読書人を生み出す機会である。つまり、出版の革命というより、宣伝の革命である。どう考えても、読書環境にとって追い風なのである。
 最後に言っておくが、読書人は、紙の本への愛着がマジハンパねえ。次回、本のすげさを、その精神的威力と紙の本という形態の秀逸さの2点から、くだまく。

by ichiro_ishikawa | 2010-09-23 23:35 | 文学 | Comments(0)  

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