人間の理解と誤解・錯覚


 友人の文学者の中で、林房雄は恐らく一番難解な男だ、と僕はいつも思っているが、人間というのは妙なもので、実に難解な人だと合点して了えば、そこに退引きならぬ理解が生れてくらしい。もう誤解という様なものの仕様がなくなるのである。あの男は、ああいう男だ、という動かし難い感覚を持つ様になる。そういう風に考えて行けば、何もこれは林君に限った事はない。難解な人物という様なものもなければ、単純な人物という様なものもあるまい、という身も蓋もない話になりそうだ。なるだろう。なれば大したものである。本当に人間が人間を理解するとは、そういう身も蓋もない処へ行き着くのが理想だろうから。

       ※

 浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先づ覚束ないものと知らねばならぬ。

       ※

 衰弱して苛々した神経を鋭敏な神経だと思っている。分裂してばらばらになった感情を豊富な感情と誤る。徒らに細かい概念の分析を見て、直覚力のある人だなどと言う。単なる思い付きが独創と見えたり、単なる連想が想像力と見えたりする。或は、意気地のない不安が、強い懐疑精神に思われたり、機械的な分類が、明快な判断に思われたり、考える事を失って退屈しているのが、考え深い人だと映ったり、読書家が思想家に映ったり、決断力を紛失したに過ぎぬ男が、複雑な興味ある性格の持主に思われたり、要するに、この種の驚くべき錯覚のうちにいればこそ、現代作家の大多数は心の風俗を描き、材料の粗悪さを嘆じないで済んでいるのだ。これが現代文学に於ける心理主義の横行というものの正体である。

小林秀雄「林房雄」昭和16年3月 
(『作歌の顔』新潮文庫ほか所収)

by ichiro_ishikawa | 2011-08-13 18:36 | 文学 | Comments(0)  

名前
URL
画像認証
削除用パスワード

<< 小林秀雄と政治 フランス語と俺 >>