なんだか絶句もできなくなり、ほとんど発狂した感じです

 〈「あるものは、その対立物と同一である」。ですから、本当のことは嘘のことになり、絶対に肯定されず、絶対に否定もされない。それは絶対と相対の対立すら超えている。ではなんなのだといわれると、僕は、「それはこれだ」と答えることにしています。(略)それは「言葉そのもの」であると同時に、「言葉」でなく「沈黙」であるとも思えます。それらすらもスッポリ包んでしまうあるもの、僕はこれをある時フッと得たのです。以来僕は「普通の」暮らしがどうしてもできなくなりました。「それはこれ」、すべてが一つであって、0が∞、僕が彼なのです。なんだか絶句もできなくなり、ほとんど発狂した感じです〉

 以上は、c0005419_17591863.gif『週刊新潮』最新号における連載コラム「人間自身」の中で、筆者の池田晶子が引用した、池田の著書『14歳からの哲学』の読者から池田に届いた手紙の一節だ。『週刊新潮』という、何十万もの読者がいるに違いない極めてポピュラーな“オッサン雑誌”の中で、やはり、このページだけ、とんでもないことになっている。不穏といえば不穏、神々しいといえば神々しい、いずれにしろ、ただならぬオーラが発せられている。

 その読者とは17歳の高校生。14〜17歳というのは、人生でもっとも精神が瑞々しく躍動している季節で、誰しも上述のような「経験」は共有しているにもかかわらず、年を重ねて社会性を獲得していくその代償として、それは、忘却の彼方に追いやられる。   
 
 この、「存在」の謎の「説明」は、これ以上明瞭に言えないというほど明瞭なのだけれど、はたして一般に通じるか、はなはだ疑わしい。
 この真理が「分かる」と、小林秀雄の作品群の中でも最も晦渋な部分——批評が詩に転じてしまう瞬間——が明らかになる。
 当の池田晶子は、数多くの著作の中で、基本的にこの1点しか言っていないのだけれど、ごくごく一部の人にしか伝わっていないというのが実情ではないか。分かる人には、分かる。ただし、分かる人にはもはや池田晶子の言葉は必要無いのだから、分からない人に向けて発語される必要がある。この「結論」を言うための、間の言葉が必要だ。
 日常生活に端を発する『ソクラテスにきけ』『残酷人生論』の2作が、比較的、間の言葉を言っている方だが、それでも結論には一足飛びに行き着いてしまっている感は否めないし、否まない。いつか「池田晶子との対話」を敢行、上梓したいところだ。あるいは誰かしてくれ。
 この「真理」が当たり前に人口に膾炙すれば、もう少し生きやすくなる。

by ichiro_ishikawa | 2005-05-09 18:12 | 文学 | Comments(1)  

Commented by セカンドライン at 2005-05-09 19:27 x
あ〜わがんね。
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