ああ、人生…

 わけあって北杜夫『楡家の人々』読了。

 一体歳月とは何なのか? その中で愚かに笑い、或いは悩み苦しみ、或いは惰性的に暮らしてゆく人間とは何なのか? 語るに足らぬつまらぬもの、それとももっと重みのある無視する事のできぬ存在なのだろうか? ともあれ、否応なく人間たちの造った時計の針は進んでゆく。
 しかし機械に過ぎぬ時計を離れて、「時」とは一体何なのか? それは測り知れぬ巨大な円周を描いて回帰するものであろうか? それとも先へ先へと一直線に進み、永遠の中へ、無限の彼方へと消え去ってゆくものであろうか?(本文より)

を読み、以下の言葉がブワーッと頭をよぎった。

 例へば、こういう言葉がある。「最後に、土くれが少しばかり、頭の上にばら撒かれ、凡ては永久に過ぎ去る」と。当り前のことだと僕等は言う。だが、誰かは、それは確かパスカルの「レ・パンセ」のなかにある文句だ、と言うだろう。当り前のことを当り前の人間が語っても始まらないと見える。パスカルは当り前の事を言うのに色々非凡な工夫を凝らしたに違いない。そして確かに僕等は、彼の非凡な工夫に驚いてるので、彼の語る当り前な真理に今更驚いているのではない。驚いても始まらぬと肝に銘じてゐるからだ。ところで、又、パスカルがどんな工夫を廻らそうと、彼の工夫なぞには全く関係なく、凡ては永久に過ぎ去るという事は何か驚くべき事ではないだろうか。
  言葉を曖昧にしているわけではない。歴史の問題は、まさしくこういう人間の置かれた曖昧な事態のうちに生じ、これを抜け出ることが出来ずにゐるように思はれる。(小林秀雄『ドストエフスキイの生活』)

 人間は、遠い昔から、ただ生きているのに甘んずる事が出来ず、生死を観ずる道に踏み込んでいた。(小林秀雄『本居宣長』)

 思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。(小林秀雄『無常といふ事』)

 あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろう。(小林秀雄『感想』)

by ichiro_ishikawa | 2012-02-04 16:35 | 文学 | Comments(0)  

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