雑記
ピーターは、1900〜60年頭までのアメリカン・ミュージックを、実際に音を聴かせながら説明していったわけだけれど、その時の音源が音楽研究家ハリー・スミスの編纂による6枚組オムニバスCD『Anthology』であった。
その中に収録されている曲は、個別にCD化されているため、即買いという決断はしなかったが、系統立てて一気に聴けるという意味では重宝するなと思ったし、なによりハリー・スミスのペンによる詳細なアメリカン・ルーツ・ミュージックのブックレット(と写真)がついているという。そこで、旅も取りあえず終わりに近付いた頃、amazonで購入するに至った。そろそろ到着するはずだ。
自分は教養ある家庭で育ったわけではまったくないが、世俗にまみれた生活を送る一方で、幼少から中学に入るまでプロテスタントの教会に通っていたという聖の面も持ち合わせている。アメリカ風に言えば、ブルーズとゴスペルに分け隔てなく接していた、となるやもしれぬ。80年代の少年期はTVの歌謡曲全盛期で夜のヒットスタジオやベストテン、トップテンの類いは毎週欠かさず観ていたし、MTVという大波は小僧レベルにまで浸透していたので、ポップなイギリス、アメリカの現在進行形のロックやヒップホップも聴いていた。
要するに、生活的にも精神的にも音楽の嗜好においても超雑種であって、意地悪な人からは節操がないと揶揄されることもしばしば。そういうわけで現在にいたっては、一部を除く演歌とヘヴィ・メタル、J−POP以外は何でも大好きで積極的に聴いているという次第だ。
一点集中型でとにかく深い人がいる。一方、各々については浅いがとにかく好奇心旺盛で守備範囲はこの上なく広いという人がいる。前者は研究者、後者はビジネスマンに多いが、どちらにもさほど魅力を感じない。山に隠って禅の修業をするストイックさも、多くの人との接触を通して精神を磨き挙げていくフットワークの軽さも、どちらにしても同じことだと思える。人は、やはり、天使にして悪魔、通常平民という矛盾だらけの存在であるというのは疑いようのない事実だろうし、さらに神を「想像」しうるというおそるべき技をも兼ね備えている。そうした両極に触れ、かつ間をすべて満たすという居方(いかた)しか望まない。
季節季節によって、何かに集中的にはまるというのは誰しも経験することだろう。ジャズに侵されたこともあるし、ブラジル、ラテンしか聴けなかった時期もある。そういやアフリカンなプリミティヴなリズムに喰らってしばらく痙攣していたこともあったっけ。そうした音楽的嗜好は、たとえば世界中を旅したいという欲求と同じかも知れない。旅人なら承知だろうが、旅の醍醐味とは、「あり得ない刺激」ではないか。齢を重ねるに連れて旅不精になるのは、あり得ないことが少なくなるのと、刺激に対する抵抗力が付き過ぎてしまうことにある。だが、そうした抵抗力を経験の深さと合点するのはとんだお門違いだ。むしろ、それは精神の鈍さの表れかもしれない。
今は、アメリカ南部の音楽に夢中であるが、特にニューオーリーンズは相当にヤバい。というわけで、次回は、アメリカ南部の旅のハイライト、ニューオーリーンズ編を開陳してみたい。
by ichiro_ishikawa | 2005-05-26 12:48 | 音楽 | Comments(1)