読書人はいかにして生まれるか

 すっかりブログの書き方を忘れた。
 備忘録としては、evernoteを駆使しているせいもあり、また意外な読者の存在を知って、「下手なことは書けない」という自意識過剰から更新が途絶えていたが、やはり腰をすえて書くという行為をせでは、精神が退化するので、恥を忍んで駄文を書き連ねることにするわけだ。いずれにせよ、文で表われることだけが自分のすべてであり、これ以上でも以下でもないという考えは変わらない。

 とはいえ、引用ではじまり、終わる。

●なぜ文学は読まれなくなったのか(出版不況に関連して)

 今、もし文学に対する「ニーズ」がないのだとすれば、それは文学作品を読んでも、そこから得られる知見によって、自分自身の生きる可能性が高まるように思えないからではないですか。
教養主義の時代に、人々が争って本を読んだのは、本を読むことから、生きていく上で死活的に重要な知が獲得できる、という予測が立ったからだと思います。

 戦中派の人たちを見てみると、充分な批評性や深い教養がなかったせいで、自分たちは歴史的愚考を犯したのだから、教養、特に人文的な知が必要なのだという世代的な反省があったのだろうと思います。

 (そうした世代が感じていたような生々しい教養への渇望は今の日本人にはもう見られないが、)人間がこの社会の成り立ちを理解し、自分自身の足場を基礎づけ、一寸先が見えない闇の中をどう歩めばいいのか、最適な判断を下し続けるためにはどうすればいいのか、その手がかりを求めていることには変わりはありません。生き延びるための知恵としての、広義の教養に対するニーズはいつの時代も変わらないと思います。

 出版物によって今自分たちが置かれている歴史的な大きな変化とは何か、これにどう対応すればよいのかについて、有益な知見が提供できるなら、今でも人々は情報や知識に対して充分な渇望を示すと思います。

 かつて文学が提供してきたようなものを、今は違う形のメディアが提供しているのではないか。

●読書人はいかにして生まれるか――出版不況打開の道、その本質的知見

 どんな人たちも最初は本は無償で読む。家にある本、図書館の本、友達の本、そういう無償の読書行為を積み重ねて、リテラシーを高めてゆき、ある段階に至って初めて自分のお小遣いで本を買い、それを自分の本棚に並べる。圧倒的な量の無料の読書の十数年にわたる蓄積があった上で、初めて有料の読書が発生するわけです。この土壌が大切なんです。読書の習慣がない人は絶対に本を買いません。たとえ無償であっても膨大な活字を読む、活字がなければいられないぐらいの活字中毒になって、書物に対する鑑定眼がきちんと身についた人がはじめて自分の財布からお金を出して本を買う読者に育つ。文学の営みを支えることになる。そしてそれを支えているのはこの私だと思いこむような読者を作ること、それが迂遠ではありますが、文学が生き残る王道だと思います。

    内田 樹(文藝家協会ニュース 特別号 2014年7月31日発行より、任意抜粋)

by ichiro_ishikawa | 2014-08-05 20:33 | 文学 | Comments(0)  

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