追悼 父、武司(てめえの精神の慰撫のためだけの駄文)

きのう、パパンが死んだ。

ついにこの日が来てしまった。
いきなり来た。
哀しくてつらくてどうしようもない。

子供の頃からそればかりを恐れ、
二十歳ぐらいまでは毎晩、
「パパとママが長生きしますように」
とイエス様の御名によってお祈りしていた。
だのに。

父、石川武司、享年79。繊細だが、自由で傍若無人、天衣無縫、豪放磊落、わがままで頑固で裏表がなく、歯に衣着せぬ物言いをするため敵も多いのかもしれないが、石川二郎監督の伝説のドキュメンタリー映画『ある家族の肖像』にもあるとおり、キャラが立ちまくった、何処へ行っても中心的存在、人気者になってしまう、快活で人思い、愛深き人間だった。

1935年に満州で生まれ、育ち、終戦の混乱の中、ソ連の侵攻をかいくぐりながら、母ミカエと共に姉と小さな4人の妹弟を引っ張って、ミカエの故郷熊本へ引き揚げた。日本の緑が見えた時、俺の祖国はこんなに美しいのかと感動したという。のち、シベリアからボロボロになって帰国した父、郷正と共に一家で三鷹に住まいを構える。のち、千葉に移り、母光江と結婚、35歳の時に俺は生まれた。

こうした武司史は、10年近く前、俺が30代半ばごろにインタビューを行い、知ったものだ。この辺りは前述の石川二郎が動画撮影しており、その他の映像や写真と共にこれから編集をし、記録映像として残すつもりだ。

武司は、50歳少し過ぎたあたり、俺が16歳ぐらいのときにそれまでの無謀な生活がたたったか、糖尿病を患い、黄疸が出始め、70前後からは倒れて病院へ運ばれることが多くなり、家族はその度に全員駆けつけ、見舞った。この10年間、ずっと入退院を繰り返し、ハラハラしどおしだった。

2013年より、血管がボロボロ、シャントも作れず、いよいよ全臓器がダメになったため、心臓負担を覚悟の上、止むを得ず透析治療を行うことに。そして、先日9月23日火曜日夕方、医師より緊急招集がかかった。

その日の深夜、俺は東京の住まいから千葉の実家に帰省、一晩を過ごし、24日水曜日午前11時頃、透析専門さくらクリニックに入院中の父武司を見舞った。

医師からは、毎週月水金の透析がここのところ困難になっており、たびたび中断することもあったが、この日朝の透析はついに中止せざるを得なかったことが告げられた。つまり余命宣告だった。もって1、2週間ということだった。

俺はその後、千葉の病院から一旦東京の会社に午後出社した。この晩は、東京の自宅に帰り、この時点では、翌日9月25は通常出社し、勤務終了後に千葉に入り、その夜から病院に泊まり込む予定でいた。

しかしその晩、つまり9月24日夜、直覚的に思い直し、明日25日は欠勤し、すぐにまた病院に行くことにした。
9月25日午後、病院に入ると、父武司は血圧が下がりほとんど意識がなく、つらそうに呼吸をしているのみだった。

会話をしたかったが、喋ることはおろか、こちらの声が聞こえているかどうかもわからない。俺はただただ見守り、祈るのみだった。意識よ戻ってくれ。話がしたい。

午後5時ごろか、呼吸がとまり、5時11分、ついに帰らぬ人となった。
常に家に帰りたいと騒いでいた父武司は遺体となってその晩、家に戻って来た。


遡ること9月18日木曜日夜、俺は東京のマンションでソファに寝そべって読書中、うとうとして眠ってしまった。
夢に珍しく、父親が登場したのだった。
俺は2人の弟に、やな予感がする、と連絡をした。やばい。電話でパパと話したい。翌日19日金曜、ケータイに電話をするも父武司は出なかった。
家族の情報によると昨日から連絡が取れない、おそらく充電が切れているのだろうという。遅かったか、ちゃんと話をしなければ、と焦燥した。

19日金曜、20日土曜と仕事をこなし、21日日曜、病院を見舞った。かろうじて話をすることができたが、応答は芳しくなかった。結局、これが最後の会話となってしまう。

その日夜、東京に戻り、22日月曜日は会社で仕事、23日火曜日は祝日だったので、近所のサイゼリヤで、仕事をしていた。その夕、医師からの緊急招集がかかったというわけであった。



父武司は、理屈が嫌いで、常に、実地を重視していた。洗礼を受けたキリスト教徒で、信心深くはあったが、神より今ここにいる人を愛した。
牧師をはじめ、父の周りの教会に通う教徒の多くは熱心に聖書を勉強し、世俗を忌み嫌う自称「敬虔なクリスチャン」であったが、実はいわゆる世間バカで、人と人との機微や義理、人情というものを分かっていない人が多かった中にあって、父武司は俗に生きた男であった。しかし聖書の言葉を、身体で理解し、世間の経験と符合させ、血肉になったものだけを信じ、自分の言葉として、自分流に発した。
考えと言動が常に一致していた。思ったことはストレートに言葉になり、実行した。

思ったことを素直に言えず、時には何も言わず、行動もしないことが多く、思索のみを繰り返す真逆の俺は、父武司のそういう在り方を実は尊敬していた。真似したかった。つまり、そういう人間になりたかった。

俺は大学卒業と同時に千葉の実家を出て(家族は千葉の中を転々としており、最終的な実家は、俺が住んだ事のない土地、家となった。2004年にローンが組めない親に代わり俺名義で買った家だ)、以来、東京に住み続け、20代から30代後半までは正月に帰るぐらいで、親とは疎遠になっていた。
ここ5、6年こそ、父武司がたびたび倒れ、入退院を繰り返した事が奇しくも機縁となり、少しは会う機会も増えた。

俺は、これから、今年の秋か冬に、東京の緑多き土地に家を購入し、両親を呼び、20年ぶりの共同生活を送るべく、計画を進めていたところだったのに、間に合わなかった。


もっと同じ時間を過ごしたかった。
もっと積極的に会いに行けばよかった。遊べばよかった。
一緒にいる、ということがいかに大事か。

最晩年、ひとり入院を続ける父武司は、寂しいと言って泣き出すことが多かった。あの傍若無人、豪放磊落、天衣無縫、骨太の腕、グローブのような手で俺を何度もぶん殴っていた、あの、大きな父武司がエンエンと泣くのであった。
毎日会いに行けばよかった。病院近くの実家からでも会社には通えたし、仕事をさっと切り上げれば毎晩だって会えた。土日こそもっと会えた。退院ができないのなら、俺が病院に通い、病院を拠点とすればいい。その発想がなかったのが、痛恨の極みであった。

まだ大丈夫、あと数年は、と思っていた。

父武司は東京に来たくなかったのかもしれない。俺を生み、育てて、波乱万丈の生活を送った千葉にいたかったのだ。三男の嫁が営む千葉駅近くの喫茶店まとい亭の前が空き地なので、そこを買い、ビルを建てて全員で住もうと、ジョークか本当かわからないことを、相変わらずの調子で、得意のあの笑顔で言っていた。
いや、それには億の金がかかる、そんな金はないと弟が言ったら、しょんぼりしていたという。その時の顔がありありと目に浮かぶ。

悔いばかりが残る。
その悔いを、残された母光江と兄弟、未来の妻に生かす。

父武司の遺産は、愛、である。俺は深い深い愛情を注がれ、愛こそがすべてと、理屈抜きに思う、こういう人間になった。

家族を、全身全霊で愛す。愛するとは、言葉を尽くすこと、同じ時間を過ごすこと。

言おう言おうといつも思いながら心中で言うだけで、生前ついに面と向かって伝えられず、遺体の耳元に投げかけるのみになってしまった、言葉を今、言う。
ありがとうパパ。

これからも常に魂に話しかけるからそばにいてくれ。


これをこう書く直前まで、憂鬱で無気力で泣いてばかりいた。遺品がありすぎて、目につきすぎて、やり切れなかった。
こうして言葉にして書き綴ることで、少し楽になった。死んだ事に折り合いが少しついたかもしれない。これが言葉のすごさだ。
いや、わからない。早く時に解決してもらいたい。




by ichiro_ishikawa | 2014-09-27 02:12 | 日々の泡 | Comments(0)  

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