池田晶子と小林秀雄

 池田晶子は小林秀雄フリークで、「小林秀雄への手紙」という著作もあるぐらいだが、ついに小林秀雄『考えるヒント』の“カバーアルバム”とも言える『新・考えるヒント』を上梓した(といっても2年前)。小林の『考えるヒント』を、“もう一度、書く”という試みだ。これは暴挙だ。ずるい、というか、うらやましい。結局、この本は小林秀雄への壮大なラブレター以外の何ものでもない。最後にはちゃっかりと、再び「小林秀雄への手紙」という表題のもと、小林に直接語りかけている。池田は自分にとってもはや恋のライバルで、小林への理解度すなわち愛の深遠度をはりあわなければ、小林を奪われてしまう。だが、俺の方が愛している、としか言えない自分の筆力をただ呪うばかりだ。
 『新・考えるヒント』では、「歴史」「常識」「考えるということ」「哲学」「学問」などを“カバー”している。これは、小林秀雄を解釈しようという試みではなく、小林風にいうならば、“原譜を忠実に弾く”という試みで、実際、小林の魂という原譜を非常に忠実に弾いている。だが、そも池田晶子と小林秀雄は、その語らんとする本質は同じだから、忠実に弾けるのは読む前から分かっていたし、実際読んでみて、「わかってんな〜」という以上の感慨はない。だが、決定的に違うことがある。それを伝える際の「文」が、やはり、違う。池田が事象そのものをいきなり語るのに対し、小林は“人”の生きざまを通してその事象の本質を明かす(生きざまと事象の本質は2つのことではない)。それは、言わば、哲学と批評という立場、性癖の違いという以上のものではないけれど、どちらも言葉を使う以上、文学者である小林のほうが、やはり、面白い。池田の文章を読むと、その直感力、洞察の鋭さ、思索の深さに畏れ入るけれど、小林のものを読むと、それらプラス、文学の総合力というものを思い知る。打ちのめされる。分厚い全集のどの頁を繰ってみても、どの箇所をつまんでみても、面白い。まったく、無駄がない。小林の文章は批評の形を便宜上とってはいるが、実は、散文詩であり、それ自体が美であり、芸術である。
 だが、池田本人は、そんなことは百も承知だった。後書き的な意味合いの「小林秀雄への手紙」で、その小林の文学力を畏怖し、てめえの才の欠如を吐露し、勉強しなければと引き締めているのである。俺はといえば、小林と池田が確実に交感しあっているのを傍らで指くわえて見ているだけである。ジェラシーを眠らせるのはそう容易いことではないが、とりあえず、小林秀雄全集の全文書き取りというライフワークを地道に続けていくことで、ジェラシーを微笑みに変えていこうと思う。

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ジョン・レノンの『ロックンロール』のような名カバーアルバム

by ichiro_ishikawa | 2005-07-27 14:17 | 文学 | Comments(1)  

Commented by せつなさを殺せない at 2005-07-27 17:31 x
全文書き取りではコピーバンドになってしまうのでは?
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