模倣とポップミューッジク



 東京五輪のロゴデザインを巡って模倣問題が話題になっているが、ことポップミュージックに目を向けると、これはもう模倣の嵐なわけだ。訴えられれば問答無用で「盗作」扱いされること確実な楽曲だって多数ある。しかしそれがなぜ許されているかといえば、やはりどれだけ似ていてもオリジナルと認定される、というか、模倣の事実を超えてそれが受け手に感動を与えてくれるからにほかならない。受け手と送り手が一体となった、模倣しあって高め合っていければよし、といった暗黙の了解事項が成立しているのだ。

 例えば、模倣の天才、大滝詠一作曲による、稲垣潤一の「バチェラー・ガール」。こういう曲だ。



 この名曲の名曲たる所以は、「雨はこわれたピアノさ 心は乱れたメロディー」というサビのメロディーにあろう。
 しかしこれはよく知られたことだが、Eddie Jason「Stay And Love Me All Summer」のサビとほぼ同じメロディーである。 



 もちろん松本隆の歌詞センスと稲垣潤一の蠱惑的なハイトーン、サビ以外のメロディやリズム、井上鑑による全体のアレンジがまったく違うから、トータルとしては誰も盗作とは言わないのだろうが、サビのメロディが丸々同じ、というのはどうなのか、という見解もあろう。

 しかし、いいのであった。同じだけど全体的に違うという感覚、こっちの方がよくなってるじゃない、という感覚が誰にも生じているだろうから。ここにポップミューッジクの魅力と懐の深さがある。
 つまりは、ポップミューックの歴史、伝統というものが、オリジナリティや個性といった胡散臭いものを無効にするのだ。
 刹那的に消費され、たとえ一時でもその時代時代で深い感動を呼ぶという、いさぎよい覚悟が、結果、長く聴かれ続ける名曲を生んでいく。
 ネタ元の作家もこの新しい模倣作の登場で自身がより知られるきっかけになる。聴き手はそれを知ることで、ポップミュージックの深い森へと誘われることになる。
 こうした作り手と聴き手の美しき共犯関係がポップミューッジクの健全性だと考える。
 要は真似だろうがなんだろうが、その楽曲によって聴き手が感動にさらわれるか、それだけが重要で、感動すれば模倣云々は問題でなくなる。情緒が理屈を凌駕していいときがあるのだ。






by ichiro_ishikawa | 2015-08-24 00:25 | 音楽 | Comments(0)  

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