池田晶子「人間自身」最新号について

 『週刊新潮』での池田晶子の連載「人間自身」、最新号(8月11・18夏期特大号)の内容が波紋を呼んでいる。がんで亡くなったある青年の闘病生活、最期の生きざまに迫ったテレビドキュメンタリーを受けての文章だ。
 勝手に要約する。
 
 青年は、「死ぬことよりも忘れられることが怖い」と言い、死ぬ間際まで「見て見て、俺を見て」とやっていた。これでは生き切ったとは言えない、生き損なったのではないだろうか。
 
 相変わらずストレートである。そして、まっとうな考え方だと感じた。
 この青年の人生はこの青年のものだから、どう生きようがその点においては青年の自由だし、本人がまっとうしたと思っていたとしたら、それは文句なくまっとうしたのであり、他人がとやかく言う筋合いのものではない。
 池田晶子はそんなことは百も承知の上で書いている。
 青年は生前、とてもいい仕事をしたのかもしれない。多くの人に勇気や希望、感動を与えたのも事実だろう。悪い人では全然ないし、むしろ圧倒的にいい人の部類に入る。その点については、池田は何も言っていない。問題としていない。
 池田は、人に見られることを生き甲斐とする、その心性に、人間の小ささ、はっきり言ってしまえば、醜さを見たに過ぎない。
 青年を支持する人が大勢いる一方、青年に対して「何だか可哀想だな」と感じた人もまた大勢いたことは事実だ。ただ、「死んだ人のことは悪く言わない」という人間の生活上の礼儀で、各々、そういう思いは心の奥にしまい、口を噤んだ。
 犯罪者でもない限り、やはり死んだ人の、ましてやがんに冒されて死を覚悟しながら生き、ついに亡くなった人に対して、その人の生きざまについてとやかく言う、まして「生き損なった」と言うのは、確かに常軌を逸している。
 だが、池田は、言葉を扱っているということの「覚悟」について、常に注意を払っている人だ。そして、常に「常識」というもの、人類普遍の土台からものを言う人だ。
 私は、池田晶子は、書かざるを得なかったのだ、と感じる。ああした心性が、手放しに賞賛されることの居心地の悪さ、感情に流されて本質を見えなくしてしまうことの危なさ、そうしたものに対する注意を促したのではないか。
 冷たいと言えば冷たいのだろう。ただし、論旨は明解で何の矛盾もない。「悪口」でもない。そして、根本的には愛すら感じる。

追記
(mixiの池田晶子コミュで、shuposhuproという方が池田晶子のいう「生き損なう」について説明をしていて、実に的確だと思ったので抜粋し補足とします)

彼女が言う「生きる」というのは「考える」つまり、自分と世界の存在について、生と死について考えることに他ならないわけで、それをしないで生きていることは彼女に言わせれば「生き損なっている」。ほとんどすべての人が生き損なっていることになりますね。奥山という人だけではない。

by ichiro_ishikawa | 2005-08-09 17:32 | 日々の泡 | Comments(1)  

Commented by asa at 2005-08-09 20:18 x
一連の騒動、池田晶子氏の著書をろくに読んでない立場で遠巻きから眺めていたのですが、池田氏の記事に憤慨した例の男の言い分、行動、立ち振る舞いすべてが稚拙で不愉快で、見るに耐えません。
池田氏のコミュニティを荒らしたうえに、別のコミュ(がんで死んだ青年のコミュ)では↓

いや、正直、最終的にはぼくがねじ伏せられて、反論できなくなって終わると思うんです。
でも、こういう連中が、どう攻めて来て、どう組み伏せていくのかって、少し興味があるのです。
これは強がりではなく。
だから、出来るだけ長く頑張ろうと思います。
ぼくが負け行く過程を分析して、あとでぼくに報告してくいただけると幸いです(笑)
何せ「哲学者」のコミュの人々ですからね!
自分でも興味津々です。

こんなこと書いてました。
一見するとごもっともに見えそうな熱弁(でも明らかに間違ってる)をふるっておきながら、どうやら興味本位で荒らしにきたみたいです。
この節操がない行動こそ、「気持ちが悪い」。
あらためて、インターネット上での表現の仕方について考えさせられました。
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