ボウイと俺

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デイヴィッド・ボウイが69「ロック」歳の誕生日に新作『★(ブラック・スター)』をリリースした直後、逝った。ここにデイヴィッド・ボウイが完結した…。


俺とボウイの関係は長い。30年近くになろう。なんせロック体験最初期のアーティストである、ボウイは。

とはいえ、当たり前だがもっと長いファンは多くいるし、様々なる書籍がすでにあり研究もされ尽くしているし、昨今のSNSの普及で、あまたなる「俺とボウイ」が氾濫するだろうから、俺が特筆すべきことなど何もないのだが、それでもなお記しておかねばならぬ衝動を抑えきれず、ごく個人的なボウイと俺との蜜月を、いまここに一筆したためんとす。合掌。



ボウイというと、単に音楽的な側面だけでなく、生き方と言っては大げさだが、社会的立居振舞、所作といったところで影響を受けている。英国紳士的ダンディズムである。そう、アングロサクソンの最高傑作としてのツラと口、歯(重要)、所作、センスオブヒューモア、スタイリッシュさ、そうしたすべてをひっくるめた「ロック」的なるものの象徴的アイコンとして、ボウイはある。

ボウイに何回かインタビューを行っている元ロッキング・オンの増井修氏が、ボウイの受け答えのパターンについて、ラジオで次のように説明していたことが強く印象に残っている。


1.まずジョークを言う。 

2.次に相手の言う事を肯定する。

3.そして、持論を展開する。


以来、俺はすべての会話においてその英国ダンディズムを取り入れて、今に至っているのだが、ふだん俺に接している人は意外に思うやもしれぬ。なぜなら、まず1がいきなりできていないからだ。その時点で終わりなのだが、よしんばできたとて、実は2もできない。人をおよそ肯定することなぞ到底かなわない。まあ3は誰でもできるだろう。ただし内容が問われなければ。

したがって1~3、すべて高度な技術と人間性を要するのは言うまでもない。

小林秀雄に、彼の叔父さんかその知り合いだったか、すべて相手の言うことに対しては「仰るとおり」、自分のことについては「ご覧のとおり」しか言わないという人が紹介されている文章があって、読後以来、これもわが人格の陶冶における最終目標としているのだが、言わずもがな、相手に反論してしまうことは多々あるし、てめえの説明もどうしてもしてしまう。これも相当難しいのであった。50までには会得したい。


いま齢44の私は、ボウイとは映画俳優としての出会いが最初だった。1980年代前半の小~中学生時代である。つまり、すでに前衛的なものも含めた様々なロック・アーティストとしての作品を創造し尽くし、その役割を終了した後、30代以降の、大衆と対峙し始めたポップスターとしてのボウイとの邂逅が最初なのであった。

だから映画といってもニコラス・ローグ監督『地球に落ちて来た男』(1976)ではなく、『キャットピープル』(1982)の映画音楽であり、『戦場のメリークリスマス』(1983)、『アブソリュート・ビギナーズ』(1986)、『ラビリンス』(1986)であった。同時に「モダン・ラブ」や「レッツ・ダンス」(ともに『レッツ・ダンス』(1983)収録のシングル曲)というダンス・ポップ・ナンバーを、『スリラー』以後のマイケル・ジャクソンやマドンナ、カルチャークラブ、ヒューイ・ルイス&ザ・ニューズ(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』主題曲)、デュラン・デュラン(『007 ア・ヴュー・トゥ・ア・キル』主題曲)らと同じ線上で聴いていた。「同じ線上」とは、一風俗として、ということであり、「音楽」としていたわけではいので、聴いていたというより嗜んでいたとでも言った方が良い。

やがて「音楽」に興味を持ち始めるにつれ、俺が知っているデイヴィッド・ボウイは実は「すべての後」であったとことを、雑誌やテレビやラジオといった当時のマスメディアを通じて知ることになる。


時は80年代後半、昭和天皇の病状がいよいよとなり、バブルの狂騒に疑念が萌し始めていた時期、世間がシリアスな空気に包まれていた頃。俺が「嗜み」として聞きかじっていた「レッツ・ダンス」や一連のダンスポップナンバー収録の同名アルバム『レッツ・ダンス』で、「ボウイは終わった」、というのが定説であった。

今にして思えば、これは70年代のビートルズ評価のようなもので、とりあえず直近の前世代は否定される、という世の慣行が普通に行われただけというのもあるが、クオリティ面を今俯瞰するに、単に「よりポップ化した」、「カリスマでなくなった」という態のものだろう。

『レッツ・ダンス』は今でこそ、ナイル・ロジャース・プロデュースのギターカッティングや、当時としてはしようがなかったドラムとベースのあの音飾処理が逆にかっこよく響くし、俺には愛聴盤となっている。けれど、70sからボウイを追ってきた耳には、「ダメ」の烙印が押されるのも無理からぬことだったろう。「普通にいい」アルバムで破綻がないからだ。あるいは商業的に成功しているものを否定することで大衆との自己差別化、特権化を創出せんとする批評家の特有の病もあっただろうか。

とまれ、そうしたマスコミの言辞を検証すべく、というか、『レッツ・ダンス』以前のボウイはどんだけ凄いんだ?という期待を持って、俺はまず「終わる直前」のアルバム『スケアリー・モンスターズ』(1980)を、四街道の「ブックバーン」というCD屋にて、輸入盤で入手した。当時、リスニングハードがレコードからCDに変わり始めていた時期、ボウイはまだ日本盤CDが発売されていなかったため、CDをとなると輸入盤を入手するしかなかった。

なるほど、手触りは明らかに『レッツ・ダンス』とは違うものだった。これがロックか、という無邪気な感想を抱いたことを憶えている。なんというか、キャッチーではない。そういうことか、と感覚的に腑に落ちた。


そして一拍置いてから満を持して、当時からすでに名盤、最高傑作と誉れ高かった『(ライズ・アンド・フォール・オブ・)ジギー・スターダスト(アンド・ザ・スパイダーズ・フロム・マース)』(1972)に飛びつくことになる。しかしながら、俺はやや拍子抜けしてしまった。声のトーンに驚いたのだった。ロックはドスの効いたものと思っていたから、その宇宙人のようなハイトーンが意外だったのだ。これがロックの名盤か?と疑った。

とはいえそこにはポップアートなる世界が広がっているのを感じた。『ジギー・スターダスト』は全体として、カッコイイ音の、ポップな、メロディアス・ロックナンバーが並ぶ。キラキラした「新しいロックンロール」に溢れている。そしてそこには、そのコンセププチュアルな匂いも相まって、ある種の文学的、アート的、そうしたものへの広がりが漂っているのを察知しては興奮していたのだった。確かにこれは同じポップでも、『レッツ・ダンス』には見られない特徴だった。

ついで、ボウイ通がこぞって高評価をくだす『ロウ』(1977)、『ヒーローズ』(1978)を聴くにつけ、そのB面の、暗く重い、到底シングルカットされない感じ、砂糖入りの飲みやすいジュースではなく、すこぶるビターな感じが病みつきになった。

そして何より、自分が幼少期の、ノストラダムスの大予言、天中殺などが流行っていた冷戦下の雰囲気、70年代後半の空気がよみがえってきた。確かに幼稚園のときに嗅いだあのときの空気はこういう感じだった、とノスタルジックに興奮して聴いていた。


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そして『ダイヤモンド・ドッグズ』(1974)ほか、その1年以内に全アルバムを聴いていくことになり、度肝を抜かれた。

とにかく70年代、ボウイは毎年新作を発表、しかも「最高傑作」を毎年自己更新していたという驚愕的事実を、80年代後半になってようやく知っていくのである。


その頃ボウイは、リアルタイムでは来日公演で過去の人気曲のオンパレードライブを行い、「バンド」、ティンマシーンを始動させていた。順に追ってきたファンではなく、ちょうど70sの全盛期を「今」聴いている俺にとってティンマシーンは、当然というべきか、受け入れられるものではなかった。その後、シングル「ジャンプ・ゼイ・セイ」、『ブラックタイ・ホワイトノイズ』(1993)、『アウトサイド』(1995)とコンセプチュアルな作品をリリースし続けるのを追って行くのだが、90年代以降のアルバムは70sのそれらに比すとやはりいまいちであることは否めない。70年代、『レッツ・ダンス』が凄すぎてどうしても霞む。しかしそれでも意欲的に実験作を送り続ける姿勢は好ましかったし、70年代、『レッツ・ダンス』でボウイは、ポップミュージック史に十分すぎる痕跡を残した、これ以上何をか望まん、そんな思いで今にいたっている。


蛇足だが、当時俺はロッキング・オンの入社試験を受けたのだが、その時のグループディスカッションの議題が、「次の表紙をデイヴィッド・ボウイと(「スーパーソニック」で鮮烈なデビューを果たした)オアシスのどちらにすべきか」というもので、俺はレコード屋で全曲試聴してしまうほど衝撃を受けていたオアシスのデビューアルバム『Definitely Maybe』を認めつつもボウイへの義理で「ボウイ派」を選んだ。しかし議論では「今のボウイは良くない」と矛盾した発言を繰り広げるという、苦いメモリーがいま蘇った。確か5〜6人のディスカッションで、ボウイ派は俺ともう一人。この人は帰りの道すがら「読売新聞に内定もらっているがロッキング・オンが受かったら蹴る」と話していて、社会不適応者の受け皿と思っていたRO社がいつの間にか一流企業になっていたことを実感。彼が実際ロッキング・オンに入社したことは後の誌面で知った。


話を戻すと、『世界を売った男』(1971)までの初期三作、『ジギ―』以降のグラムロック時代、『ヤング・アメリカンズ』『ステーション・トゥ・ステーション』のソウル期、『ロウ』からのベルリン三部作、『スケアリー・モンスターズ』、『レッツ・ダンス』。ここまで実に傑作の嵐である。


最も好きなのは、『ヤング・アメリカンズ』~『ステーション・トゥ・ステーション』のソウル期。冷戦のダークな感じと70sソウルな感じのブレンド、ヒリヒリしたギター、クラウス・ノミらへの接近といったヨーロッパの雰囲気が混ざった傑作だ。ブレンド感はまさにロックそのものである。中でもエイドリアン・ブリューをギタリストとして迎えた「Stay」は、1992年の初渡英時に現地で購入したライブアルバム『ステージ』(1978)中のマイフェイバリットという個人的事情もあり、いまだボウイのマイナンバーワンソングとして君臨し続けている。




「ファイン・アーティストになりたかったが、この国ではファイン・アーティストは食べていけないと教えられてるからね」(1993年ごろ)

この発言にボウイの本質が垣間見られる。真の芸術家が意識的にポップたらんとしていたボウイこそ、ロックンロールの体現者であった。


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by ichiro_ishikawa | 2016-01-12 01:46 | 音楽 | Comments(0)  

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