文学と俺


学生時分、近代文学の演習か何か、確か漱石の「行人」だったと記憶しているが、彼はなぜここでこうしたか、山に登ったか、社会状況はどうだったか、交通手段は、などなど作中の数多の事項を綿密に考察していくぞ、と先生がのたまう。

まあ背景の考証はよい。それがなければ登場人物の行動や心理を誤って掴むことにもなろう。
また、その登場人物の心理、行動を読むのもいい。実生活でも何らかの足しにはなろうし、そも試験で問われてくるだろう。

だが俺は、先生の態度に違和感を持った。
何やら本気なのである。
こうした分析、考察は頭のトレーニングになるし、実社会での様々な局面でも役に立つからやっている、もしくは試験で問題にするからやっている、という事ではどうもないようなのだ。それ自体に意味がある、もしくはその意味、意義などはどうでもよく、それ自体が生きること、生きる目的であるといった異様なテンションなのである。

例えば俺が、彼はこれこれこういう心だったのだ、とか適当に答えると、いや違う! とか何故だ? とか食ってかかってくる。いやいやいや、違うとかないでしょ。あなたは彼でも漱石でもないのに。それにさっきは思いつきで言ったまでで、そこまでてめえの考えを主張したいわけではないのです。違うなら違うで構わないし。といった温度差である。

つまり、俺の中で根本にあったのは、
え?でもこれ作り話だべよ。実際起こったことじゃねえし、そも登場人物も架空の人物だべよ。そんな作り話の中の事を、実際の事件の現場検証みたいなことするなんて、いわばおママゴトだべ? なんでそんな目くじら立ててんの?

と同時に、そういう、意味のないことを人生をかけてやる、そのバカらしさが、直観的に、尊い、とても重要なことに感じたのだった。
事実の分析よりも、こっちの方が大事だ。
真理の探究の方がほんとうだ。

以降、社会に出てだいぶ経つ今だに近代文学演習を独自に展開している。
齢40も過ぎると、生きる全労力の99%は生活や金儲けの事に費やしているのだが、1%だけ真理の探究に向けていて、その1%が99%の土台になっている。


by ichiro_ishikawa | 2016-03-24 10:17 | 文学 | Comments(0)  

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