連載 小林秀雄が考へるやうに考へる 考える葦


人間は考える葦だ、という言葉は、あまり有名になり過ぎた。気の利いた洒落だと思ったからである。或る者は、人間は考えるが、自然の力の前では葦の様に弱いものだ、という意味にとった。或る者は、人間は、自然の威力には葦の様に一とたまりもないものだが、考える力がある、と受取った。どちらにしても洒落を出ない。
パスカルは、人間は恰も脆弱な葦が考える様に考えねばならぬと言ったのである。
人間に考えるという能力があるお蔭で、人間が葦でなくなるはずはない。従って、考えを進めて行くにつれて、人間がだんだん葦でなくなって来る様な気がしてくる、そういう考え方は、全く不正であり、愚鈍である、パスカルはそう言ったのだ。そう受取られていさえすれば、あんなに有名な言葉となるのは難かしかったであろう。
(パスカルの「パンセ」について)


これはどういうことか。
言葉は易しいがここで考えられている事は例によって難しい。謎を考えているからだ。というかそも答えを求めていない。いかに問うかに賭けられている。

これは、別のところで書く、「一方の極端まで達したところで何も偉い事はない、同時に両極端に触れて、その間を満たさなければ」を言っている。

あるいは「あらゆる思想は実生活から生れる」
(しかし生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか)
は伏線たりうる。

つまり、考える葦とは、
人間は、生きて知る、
それ以外にない、
という事だ。

「人間は生きて知る」
では気が利かないし、
洒落てもいないから有名にはなりえないが、
そこに込められた思いは深い。
深すぎて暗いから見えづらい。

だのに小林秀雄はパスカルのその暗い心が見えた。その時、小林秀雄は無私を得てパスカルだったから。そういう仕方で対象に向かうのが小林秀雄という批評の魂である。

無私とは分かった気にならないこと。
対象を愛し、対象そのものになること。
それが小林秀雄の批評だ。




by ichiro_ishikawa | 2016-05-12 21:26 | 文学 | Comments(0)  

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