回想1978〜1984


小学校時代(1978年4月〜84年3月)の趣味は、映画とプロレスとジャンプと歌謡曲とサッカー。
これが5大趣味であった。

歌謡曲はこれまで散々書いているから割愛。

当時プロレスは新日本プロレスと全日本プロレスの2団体のみ。国際プロレスは途中で潰れた。確か12チャンで中継していたがいつの間にかなくなり、ラッシャー木村とアニマル浜口、寺西勇は「はぐれ国際軍団」として新日のマットでヒールとして活躍を始めた。
新日は10チャン金曜夜8時から、全日は土曜夕方の6時から4チャンで毎週中継があった。
『プロレス大百科』を熟読して、それこそ神様カール・ゴッチから、AWA王者バーン・ガニアやかぼちゃ爆弾ヘイスタック・カルホーン、人間発電所ブルーノ・サンマルチノ、ニックボック・ウィンクルといったそれ以前のレスラーも研究し、また「少年サンデー」で連載されていた「プロレス スーパースター列伝」も愛読。活字とテレビから様々な情報を吸収していた。

よく地元の千葉公園体育館に、父あるいは、母が勤める美容院の車狂のチーフ(店長。母はチーフと呼んでいた)に、スポーツカーをかっ飛ばしながら連れて行ってもらっていた。
幼少時分はタイガー・ジェット・シンが全盛で、シンは毎度サーベルを振り回しながら客席を練り歩いて入場してくる。
ある日、共に観戦中の傍らの父が、フォークを握りしめ(なぜか持っていた)、
「あの野郎ぶっ飛ばしてやる!」
と殴りに行こうとするのを、
「やめて!(殺されるから)」と本気で制止した。
当時はレスラーの入場時、客が悪役レスラーを触りに行く風習があり、我々もご多分に漏れず毎回キチガイのように触りに行っていたが、弟は、スタン・ハンセンにムチでしばかれ、アドリアン・アドニスには「crazy!」と殴られた。レスラーが客を殴っても良い時代であった。

猪木がホーガンにアックスボンバーを食らって脳しんとうを起こした時、俺はチーフと蔵前国技館でそれを観戦していた。現場は、猪木がいつまでも起き上がらないことで異様な空気になっていた。「イチバーン!イチバーン!」と連呼していたホーガンも、場外でダウンしている猪木を途中からは心配そうにリング上から見守り始めた(後日週刊誌の取材でホーガンは、あのとき猪木の心臓がストップしてると聞きチビりそうになったと述懐)。
何がどうなっているのかよくわからなかった俺は、チーフに「猪木どうしたの?どうしたの?」としつこく聞くも、リングアナウンスに聞き入り状況把握に精神を集中していた彼に「シッ!」と遮られ、軽くショツクを受けた。チーフは「シッ!」などと制する人ではなかったし、俺も「シッ!」と言われるガラではなかったのだ。以来、俺はチーフとギクシャクし始めた。俺が無邪気な子供から思春期に向かうきっかけとなったのが、このアックスボンバー脳しんとう事件であることは、記憶に留めておいてもいい。


ジャンプもまたそのチーフ、明かすと、「ビューティヨコタ(横田美容室)の横田さん、がジャンプ、マガジン、サンデー、チャンピオン、キングの5大少年誌、それぞれ週刊、月刊と全部買っていたので、それを母に持って帰って来てもらい、貪るように読んでいた。
ジャンプに至っては、その全盛期の81〜83年は、「読む用」に加え「保存用」として自らも購入。ページを繰ることなく新品のまま保存していた。いつか高値で売れると踏み、踏み続け、実家の数多の引越しにも負けず、未だに捨てないで持っている。
「ジャンプ捨てちゃえよ」が親の口癖だった。
ちなみに巻末の読者コーナーにもしばしば投稿。「ジャンプ海賊ワールド」に1回、次に始まった「ジャンプ放送局」に2回掲載された。コミックスにも収録されているが、千葉市が東京都と誤植された。

「Dr.スランプ」の終了と共に斜陽を迎えるジャンプだが、鳥山明が次回作はカンフーマンガを描く、ついてはキャラクターを読者から公募するという告知があった。
ジャッキーチェン及びクンフーファンにして、大の鳥山ファン、かつ漫画家を目指していた(正確には「最悪の場合、漫画家になればいい」と、考へていた)俺は、これ幸いとばかりに応募。
当時流行っていた映画「少林寺」のリー・リン・チェイ(現ジェット・リー)をモデルにした「少 林寺(しょう・りんじ)くん」といふキャラクターを考案した。
それが何を隠そう、クリリンとなって本編に登場するのであった。額の6個の点々こそなくなっていたし、そのままのネーミングがより秀逸な名前に変わっていたものの、あれは紛れもない「少 林寺(しょう・りんじ)くん」である。
ジャンプからは謝礼も連絡もない。鳥山明からもない。
ちなみにキン肉マンも募集していて、これは俺はボツになったが、「バッファローマン、どこどこの誰々さんの作品」などの応募結果が公示されていたが、ドラゴンボールに関してはなかった。
鳥山明の何百億といふ印税のうち100万でいいから貰ふ権利はないか? 時効か? 物証は、ない。

これが、これまでもしばし周囲に俺が漏らしていた、「クリリンは俺が考へた」説の真相なのだが、水島新司の「野球は俺が考へた」と同種の放言ととられがちなのは心外である。

サッカーは「キャプテン翼」の連載開始と同時に学校の特設クラブに入り、12チャンのダイヤモンドサッカーを観て研究し、読売クラブの試合をしょっちゅう観に行っていた。4年生で始めたときは同学年が4人しかおらず、5年に上がった時は遊ぶ時間が勿体ないと思ひ一旦辞め、6年で再入部。しかし5年の時に同学年の奴らが30人ぐらい入部していて、6年時にそいつらに追いつけず(「5年からやっている軍団」という強固な連帯から弾かれたことが大きい)2軍で終わったが、2軍ではセンターフォワードだっため、1軍でバック(DF)やハーフ(MF)をやるより、ひたすら点取り屋として動けたから、結果面白かった。


さて、いよいよ本題。
本題は実は映画なのであった。これを書こうとしてブロムを開いたが、思わず当時の記憶がブワーッと蘇り前置きが長くなった。しかもその前置きも、これからの話には特にリンクしない。

映画館まではまずチャリで駅に行き、電車に乗って2駅先の千葉といふ駅に出る必要があった。
千葉駅界隈には京成ローザ、京成ウエスト、千葉劇場、千葉東映の4館があった。
電車賃は子供料金で120円ぐらい、映画は800円で、必ず同時上映の二本立て、パンフレットは300から高いもので500円といふ時代で、メシ代入れて2000円で行って帰って来れた。それはそれはしょっちゅう観に行っていた。
弟と共に鑑賞することも多く、それが高じていま彼は映画監督を生業としている。80年代後半からの香港映画の衰退と共に俺の映画熱はやや冷めていったのだが、彼はその後も香港の映画専門誌「銀色世界」を海外から定期購読したり、「香港電影通信」といふファンジンを取り寄せ、さらに洪家班といふサモ・ハン・キンポー(洪金寶)率いる武術指導グループにまで入ろうとしていた。

当時はジャッキー・チェンの全盛期で、1984年の2〜3月には『プロジェクトA』(A計劃)を、劇場で4回観に行っている。つまり同時上映の『猛獣大脱走』も4回観ている。

1984年3月、小学校を卒業し、4月から別の町の中学校に入学する直前の春休み。
近所に住む小学校の友人が、確か夕方ごろ訪ねてきて、親か誰かから映画のチケットをもらったから行こうぜと言ふのであった。
そいつはクラスの嫌われ者で俺しか友達がおらず、学校帰りうちに寄っては玄関先でただジャンプを読んで帰るといふ男で、そいつと行つても面白くないのだが、ただで何か映画を観れるし、別の中学に進むのでまあ最後ぐらい、と付き合ってやった。

俺はそれが何の映画かも確かめることもなく、そいつと千葉駅まで繰り出し、その映画を観に行った。

それが何を隠そう、あの伝説の『すかんぴんウォーク』だったのである(ちなみに同時上映は、あの『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』であった)。

続く。

by ichiro_ishikawa | 2016-07-06 01:38 | 日々の泡 | Comments(0)  

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