鹿島茂『ドーダの人、小林秀雄』の衝撃


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鹿島茂『ドーダの人、小林秀雄』(朝日新聞出版)は、小林秀雄ファンにとって極めてショッキングな本である。
「ドーダ」といふ概念を軸に、彼を読んだ人も、読んでない人でさへも、日本の知性の最高峰、偉い、凄い人と認知してゐる小林秀雄といふ大批評家が、いかに大したことないかを、極めて緻密に高等な知性でもって証明してゐるのである。

ドーダといふのは、簡単に云へば、いはゆる「クワッ」であり、ドヤ顔の「ドヤ」である、と俺は理解した(あとで詳しく引用して、正確に書いておきたい)。

大抵小林秀雄批判と云ふのは、印象批評に過ぎないとか、緻密な考証抜きに感覚でモノを言つてゐるだけとか、ことに研究者筋からの、本質を読めてゐないものが殆どで、取るに足らないものだが、本書は違う。小林秀雄の本質、方法、表現の核をキチンと捉へた上で、それこそが大したことない所以であることを見事に証明しきつてゐるのである。

本書を読んで、似非小林秀雄ファンはムキーッとなるだらうが、俺は小林秀雄全集を少なくとも3回は精読し、文庫に至つてはそれぞれ100回、いや200回は読んでをり、かつ全文書き取りをライフワークとしてゐるばかりでなく、詳細な年譜、全著作の初出、掲載書籍、文庫、全集巻などをエクセルでデータベース化してをり、さらに全単行本を蒐集してゐる、筋金入りのエピゴーネンであり、誰よりも小林秀雄を理解し、愛してゐる男であるからして、ムキーッとはならない。
本書の著者は、小林秀雄の正鵠を射てゐるからである。小林秀雄の本質を読めてゐる。

とはいへ、てめえの神あるいは親がバカにされてゐるといふのに、なぜムキーッとならないか。

その前に、著者、鹿島茂が本書で小林秀雄を、どうバカにしてゐるかを説明する。
この本はきはめて知性的なため、二、三度の精読を要するものだが、一読した段階で掴んだ骨子を、換骨奪胎、我田引水の誹りを免れない事を承知で、俺流にグワッと要約すると以下のやうになる。

小林秀雄は日本の知性の最高峰、大批評家なぞではない。単なるロックの人、ロックンローラーである。

そう。つまり俺と同じ考へなのである。
俺が小林秀雄を愛してゐるのは、彼が日本の知性の最高峰、大批評家だからではなく、ロックだからである。だから、小林秀雄をバカにしてゐる本書を読んでも、バカにされてゐる感じは受けず、むしろ、よくぞ本質をきはめて知性的に分析してくれた、さうさう、さうなんだよと、いちいち納得しながら読了したのである。

つまりバカにしてゐる、といふのは、日本の知性の最高峰、大批評家なんかではない、といふ点に於いてなのであり、「小林秀雄はロックの人に過ぎない」と、要はロック性を知性より下に見ているだけの話である。

俺は知性よりロックを上に見てゐる、といふか大事にしてゐるものだから、それは価値観の違ひであつて、どうかういふ類のものでない。

而して本書は、小林秀雄はロックである、
といふことを分析的な言語で証明してくれた、
超良書である。




















by ichiro_ishikawa | 2016-11-05 02:50 | 文学 | Comments(0)  

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