『1984年の歌謡曲』
スージー鈴木著『1984年の歌謡曲』(イースト新書) 読了。
タイトルからして「俺こんなの出したっけ?」と思つたほどズつぱまりだが、だからこそか、「俺の時代1984年」を俺以外の人間が何をか語らんと、まゆつばで手に取つた(正確にはamazonレビュー吟味)。
結論から言へば、頗るご機嫌な良書であつた。
序盤こそ、水道橋博士フォロワー的な気の利いたヒューモアに彩られた知的サブカル論かと、予想(先入観)通り閉口しながら読んでゐたのだが、楽器奏者でもある著者ならではの音楽的分析が挟み込まれてきたあたりから興が乗つてきて、読了後の今は、俺の肌感覚を見事に言語化し、かつ及ばなかつたところにも及び、とても完成された、高水準の本であるといふ結論に達し、貴重な980円(デニーズ牡蠣フライ定食分)をはたいて余りある価値があつたと喜んでゐる。
秀逸な部分の抜書きは、本稿を日々推敲しながら更新する形で追記していく事にして、ひとまづ一筆書き的に全体の印象を記すと、とにかく分析が全部当たつてゐて(正解は肌感覚で俺が知つてゐる)、かつ新発見もいくつかある。そしてそれを支へる文章のクオリティも高い。
ポップ論の分野は、現代感覚とセンスが重視されるゆゑ、「センス偏重、文章雑」が許容されるといふ悪慣行が跋扈してゐて、ロウクオリティなものは比喩と形容詞句が微妙に雑であったりと、新刊の大半は愚作なのだが、本書はその点をクリアしてゐるところが大きい。文章クオリティの最重要点とは、意味するものと意味されるものとの間に乖離が微塵もないこと、つまり言葉の斡旋の的確さである。それは分析の妥当性とも実は同じものである。
また、かういふリアルタイム検証本に於いては、読者(俺)と著者の身の置かれた環境の差異が重要だ。
今回、共に1984年を愛する身であるが、違ひは、著者は俺の5歳上。1984年当時中1の俺に対し著者は高3で、音楽を本格的に聴くようなつて間もない少年であつた俺に対し、すでにある程度広く深く音楽を聴き倒していた大人であること。
また、著者は大阪、俺は東京(厳密には千葉)で暮らしてゐて、著者はハードロック系、俺は体育会系だつたといふ点だ。
これらはとても大きな違いであり、読む前のまゆつばはそうした不信感、つまり「関西系のハードロッカーがあの1984年を語れるわけがない」といふものだつた。
しかし前述通りそれは大きな誤解で、みごとに1984年の的を射た分析がなされてゐたのであつた。アースシェイカーをとりあげるあたりに趣味的バイアスが少しく認められるものの、基本的に中立である。洋楽過剰崇拝や裕也<はっぴいえんど思想、逆に開き直りの下世話礼賛といつた偏りがなく、大阪バイアスもほとんどない。ローカル目線は銀座じゅわいおクチュールマキのCMのテロップの違いへの言及など、むしろ良い方向に働いてゐる。そして大阪のハイティーンであつたことが、シティポップをよりうまく対象化する事にも成功したか。
さらには、1984年のヒット曲をミクロに分析し、「名曲度」をつけてゐるのだが、その度数も当たつてゐるし(繰り返すが「俺」が答案用紙)、何よりもニューミュージックと歌謡曲が融合しシティポップが誕生した、といふ一見凡庸な結論も、アレンジャーへの目の付け所の良さや、ミクロな楽曲分析からの裏付け、古今東西の音楽史・芸能史への精通度の深さからなる大局的、体系的な視座をもつてゐて、大変説得力がある。つまり結論とその実証過程そのものが読みごたえがあり、かつエンターテインメントとしてまとめられている。
白眉は前述のアレンジャーと音符分析、特に薬師丸ひろ子楽曲の評価だ。この音符分析はよくもここまで大衆に理解できるやうに言語化したものだと驚く。「woman」と大沢誉志幸「そして僕は途方に暮れる」。この2曲が1984年のトップ2であることに全く異論はない。1984年どころかオールタイムベストでもある。
玉に瑕である点が、好評価を下してゐるビートたけし&たけし軍団「抱いた腰がチャッチャッチャッ」は、実は大沢誉志幸には珍しい凡作であることと(おそらく著者はたけしファン、60年代生まれに信奉者多し)、「チェッカーズがやってくる、チェ!チェ!チェ!」というフレーズは、1回はよいが何回も、しかも本書の骨子を体現するキャッチフレーズにまでするほどうまくはないというところだ。
とはいえ、それらは惜しいという域に過ぎず、全体のクオリティを貶めるには至らない。といふかその瑕疵を補って余りある本文を擁する。
次作「1986年のロック」を希望する。1979、1984、1986との三部作をもって、黄金の昭和後期の大衆音楽の全貌はいよいよ明らかになる。
by ichiro_ishikawa | 2017-03-09 09:51 | 音楽 | Comments(2)