抱きしめたい日本語・番外編

私が信じているただ一つのものが、どうしてこれ程脆弱で、かりそめで、はかなく、又全く未知なものでなければならないか。
(小林秀雄「秋」(1950年)より)



 脳科学者・茂木という人の「脳と仮想」(2005年・新潮社)が良かった。茂木氏は「クオリア」という言葉で、科学がその属性として排除せざるを得ない、目に見えない何かの“質感”を表した人だ。本書では、それを発展させて、「仮想」という言葉に、脳が生み出すあれやこれを託す。仮想とは、ここでは「ヴァーチャル」ではなく、「イマジネーション」のことのようだ。ただし、厳密に区別はされていない。「記憶」まで含む多義的な概念として「仮想」を使っている。科学者なら、言葉の曖昧さにいろいろくってかっかって、論考とは言えないとしてしまうだろう。私はただの考える人なので、そういうことは気にしない。むしろ、事態の曖昧さを、無理矢理自分の頭のサイズに歪曲することをしない、清潔さを感じる。
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 科学というのは基本的に物質しか扱えない。ということは、私たちの世界のごく一部のことしか扱えないということだ。茂木氏はそこを確実に押さえている科学者で、信用が置ける。科学の限界を知り、次の次元へ飛びつかんともがいている。ついには目に見えないものを素材とする哲学や文学にぶち当たる。小林秀雄、柳田国男、デカルト、ベルクソンを引用する。

 小林秀雄が、母親が死んで数日後のある時、たまたま見た大きな螢を「おっかさん」だと思ったという、有名な話がある。
 小林は言う。母を失った傷心から来た夢想だと笑うだろうが、笑うことは私にもできるのである。
 「おっかさんだったのだ」。それは疑いようもないことだ。何がいけないか、不都合か。科学的合理性では割り切れない何かを小林はもっとも大事にしていた。科学が除外する不確実なものをこそ、小林は唯一信じていた。
 ベルグソンもまた同様だった。パリにいる、ある軍人の妻が夢を見た。夫が遠い戦地で敵に囲まれている。彼らの顔もはっきりと判別できた。後日、まさに夢を見たその時、夫がそのような状況で死んだことが分かった。科学者は、夫人が夢を見た時、果たして本当に夫が死んだかという問題に摺り替えてしまう。科学的じゃないと、相手にしない。ベルグソンは批判する。そんなことを夫人は話したわけではない。見たものは見たのだと。この経験をどうして疑えよう。

 茂木氏は、職業的には科学者だが、小林やベルグソンのような、あるいは日本の民俗学を研究する柳田国男のような、懐疑力の持ち主で、主観的な実際の経験に重きを置いている。だから本書は、科学書としては何も言っていないことになる。本書は、小林秀雄に対する、最先端の科学者からのラブレターである。そこが面白い。知識を得たかったら本書は読むには及ばない。衣食住、生活向上のヒントとして読む向きには、一層何の足しにもならない。だが生活など「実は」どうでもいい、という人にはもってこいだ。小林秀雄以上のことは何も言っていないが、それでも“考えるヒント”は散らばっている。科学が排除してきた(ゆえに多大なる発展を遂げたとも言えるのだが)、あるものに、立ち向かおうとしている、そしてやはり無惨に散る姿を、科学者自身が確信犯的に見せつけている、そうした覚悟が清潔で、面白い。
  小林秀雄の焦燥は、いま、なお、ここにある。 

by ichiro_ishikawa | 2005-10-26 00:18 | 文学 | Comments(0)  

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