ばかばかしい話

家の庭に祠(ほこら)があった。
家の者にこれは何かと聞くと、祖母を祀(まつ)ってあると言う。
幼な心にその祠が気になってしょうがなくなり、
ある朝、思い切ってその祠を開けて、覗いてみた。
中には、ろう石があった。
祖母が生前よく使っていたものらしい。
そのろう石を見つめていると、非常に妖しい気持ちになった。
なんとも言えぬ妖しい気持ちになった。
ふと、空を見上げると、星がたくさん見えた。
こんな白昼に星が見えるのはおかしい、そう思った。
妖しい気持ちは続いていた。
その刹那、鵯(ひよどり)が鳴いた。
その鳴き声で、我に帰った。
あの時、鵯が鳴いていなかったら、
私は発狂していたであろう。

 というようなことを「ばかばかしい話ならいくらでもあります」との前置きのもと、民俗学者の柳田国男が書いている、と小林秀雄が書いている。この鋭い感受性こそが、柳田の仕事の根幹にある。その仕事の秘密である。と小林は考えているに違いない。

 「ばかばかしい話」というのは、「どうせ信じてもらえないだろうが」というシニカルな意味ではない。実際ばかばかしいと思っている。だがそれは、現実的な普段の実生活と同じ程度にばかばかしい、ということだ。ただし、どちらも、同じ程度に生々しい、自分の実存に深く関係している、ということだ。

 少年・国男は、ろう石を触ったことでババアの魂に触れたのだ。怪しい気持ちとはそういうことだ。空ではババアが星として「存在」していたのだ。科学的には証明されまい。魂や存在は科学では扱えない。科学は物質しか対象にできない。科学が無理に介入すると、それは幻覚かどうかという議論に摺り替えられるか、精神分析学や心理学がずかずか入って来ることになる。
「母親はいちいち自分の子の心を分析したりしないですよ。これは心理学的にはこうだから、精神分析にのっとると、なんてことはしやしない。子どもの考えてることなんて、顔見りゃすぐ分かっちまうんだ。それが母親ですよ」(小林秀雄)。
 星は人ではない。だろうよ。でもそんなことを話しているわけじゃないのである。ババアとの魂の交感があった、星を見て「あ、ババアだ!」と思った。それがすべてだ。こうした「経験」がないがしろにされる理由はどこにもないではないか。この経験が絶対に疑えないのなら、そうであったことは、確かににそうであったで、十分だ。科学的批判精神などが入って来る余地はない。
 これを「現実」と同程度に現実と認識することは、創作の芽であろう。文学は絵空事ではない。文学の心がなければ民俗学はできなかったのである。だから柳田国男の文章は面白い。

c0005419_13103980.jpg

“ばかばかしい話”がいくらでもある柳田国男の最高傑作「遠野物語」

by ichiro_ishikawa | 2006-03-08 13:11 | 文学 | Comments(1)  

Commented by やせがまん at 2006-03-13 13:25 x
高校1年のときバスケットをやっていました。自分で言うのもなんですが、3ポイントシュートが得意でした。調子のいい時は305cmのリングが上から見えました。リングの真上からボールを落とす感覚です。

小学校のころでした。自転車で走っていると、ダンプが脇を通り、避けようとした自分は民家の壁にあたりそうになりました。いや、物理的にいったら、あたっていました。しかし、あたりはしませんでした。「あたるぅ〜」と思いながらその瞬間は覚えていません。ただ、わたしの腕は壁をすり抜けました。肉体が無になったと感じました。

ばかばかしい話ですみません。
名前
URL
画像認証
削除用パスワード

<< 布袋寅泰 25周年総括ギグ a... ジャズ・ギター >>