池田晶子の仕事、礼賛

 ブタ野郎どもがひしめくじめじめと暗く腐った憂鬱な社会での生活にどっぷりと浸っていると、日々憤り、哀しくなり、仕舞いには疲れ果ててぐっすりと寝てしまうのだけれど、そんなとき、俺はコンビニに駆け込み週刊新潮をめくる。それ自体ブタ野郎どもがひしめくじめじめと暗く腐った憂鬱な社会の見本市であるわけだが、その中で1ページだけ、一種の解毒作用をもった清涼剤、いわば癒しのオアシスといった効用を果たしてくれるエッセイがある。池田晶子「人間自身」だ。毎週、1週間の精神の大掃除を池田晶子によって促されるという塩梅で、こういう「モノホンの言葉」にコンビニで容易く触れられることにやや驚きながらも、こういう「モノホンの言葉」に触れて、俺はホッとする。分かっている人は、確かに存在する、と。

 池田晶子は、「自分が絶対正しいと思っているごう慢なエセ哲学者」といった中傷をよく受ける。だが、それがとんだお門違いだということは、きちんと文が読める、常識・良識(コモン・センス、ボン・サンス)が備わっている普通の人間だったら一瞬で分かるはずだ。
 「正義とは何か」について池田晶子は書くとする。それは決して「私(池田晶子)が考えるところの正義」についてではない。「正義」は、人によって定義が変わったり、法律のように時代ごとに改正されて行くような類いのものではない。ある人にとって「正義」なものがほかのある人にとっては「正義」でない、というようなものは決して「正義」ではない。何か別のものに違いない。

 では「正義」とは何か。それは、「正義」という言葉自体だ。すなわち「正義」はあるかという問いの答えも、「正義」という言葉があるのだから、「ある」となる。これでは話が終ってしまうし、逆に分かりにくいと思われるので、とかく人が声高に叫びがちな「正義」がいかに「正義」でないかを書くことで、池田は「正義」とは何かを明らかならしめる。
 それが池田晶子の「意見」ではないということが重要だ。「正義」について考える時、他人の意見なんか聞きたくないじゃないか。池田晶子の文が面白いのは、そこに普遍的な言葉があるからで、池田晶子の軽妙洒脱なご意見があるからではないのだ。
 池田晶子はある意味「過激」と捉えられがちで、その読者はよく「信奉者」などと、特にインテリゲンチャから皮肉られるが、池田晶子の愛読者は池田晶子を信奉しているのではなく、ただ真理に近づきたいだけだ。その「真理を説く」という肝の座った仕事をしている池田晶子という人を尊敬しているだけだ。

 欧米人が教会に通うように、俺は池田晶子の文を読む。

by ichiro_ishikawa | 2006-06-14 01:06 | 文学 | Comments(3)  

Commented by n at 2006-06-15 22:40 x
私が「柳美里が選んで並べることば」が好きな理由に似てます。
Commented by 三好 at 2006-06-18 02:00 x
そうですね。僕としては池田晶子は解毒というより、打撃です。ポンッと宇宙の果てにブっ飛ばされる感じ。はいっさようなら、形而下!という。
Commented by ナオ at 2006-10-06 15:28 x
私も週刊新潮を池田晶子のコーナーだけはかかさず読んでいます。
形而下のことを書かれてるようで今の私には日常生活の知恵です。
サンデー毎日のほうは読んでませんがどんなんなんでしょうか?
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