ロック、ロックとうるせえ文章

 10数年前、「rockin'on」で、増井修か山崎洋一郎が、「仕事でもプライベートでも色々な人と会って話をするが、ロックを通ってない人はダメだ、とはっきりした」というような意味のことを言っていて、すごく、腑に落ちたのを覚えている。これは、ロックを通っていない人はダメな人間だという意味ではなく、ロックを通っている人こそ素晴らしいということでも全くなく、ロックを通っている人といない人では、本質的なところで「没交渉である」という意味だ。
 例えば、写真家にここをこう撮ってほしい、または、デザイナーにこういうデザインで、あるいは、この曲はアリ、これはナシ、さらに、この店、服はアリ、それはナシ、あのギャグはOK、それはいただけない、歩く時は右足から、などなどあらゆる肝心なところで、ベクトルを異にしてしまう。とはいえ、社会という修羅場では、他者とのコミュニケーションへの屈強な意志が必要で、議論して何処かで折り合いをつけなければならない。それはそれで、スリリングで、それゆえ、高い跳躍が出来る場合も多いのだけれど、やはり、疲れてしまうのだろう。そしてこう漏らす。
 ロックを通っている人なら、理屈抜きに一発で分かり合えるのだが……と。

 ロックを通った人間というのは、お互いに、すぐわかる。性別、国籍、職業、左右を超え、ある1点において通ずる。その「通ずる」は、他の数多の相違点を凌駕する。彼らは赤の他人で、直接会う機会も今後ないとしても、ずっと通じ合っている。逆に、さまざまな点でウマが合い、常に寝食を共にするような間柄でも、その1点が共有されていないと、結局、哀しいかな、ディスコミュニケーションなのである。

 ロックを通っている人は、ロックを通っている人を敏感に察し、全幅の信頼を寄せる。
 モリッシー、マイケル・スタイプ、ボノ、エルヴィス・コステロなど、ミュージシャンは当然だが、小林秀雄、太宰治、中上健次、池田晶子、リリー・フランキー、渋谷陽一といった文学者、マーティン・スコシージ、レオス・カラックス、ヴィム・ヴェンダースなどのシネアストらには、直接ロックとは関係のないものの、へたなロック・ミュージシャンよりよほどロックを感じる。

 ロックを通っている、とはひどく曖昧で、言葉足らずのようだけれど、要するに、ロックにやられたことがある(やられている)ということだ。言葉の靄を晴らそうとしていよいよぼやけてしまったやもしれぬが、つまり(はたしてつまるかどうか)、ロックで生き方の根本を覆されてしまった、という経験だ。
 
 とは言え、それは、例えば、10代のころ、ディランでもストーンズでもいい、最近の人ならオエイシスでもヘディオレッドでもいい。その音楽にいたく衝撃を受け、学校を辞めた、盗んだバイクで走り出した、インドに進出した、コーランを耽読し始めた、お前がかじを取れ、まあ何でもいいが、なんらかの跳躍ある行為に及ぶ、と。そうしたアクションと、この「ロックを通る、ロックにやられる」とは、何ら関係がない。また、素直に高校を出て、大学に進み、中小企業に就職し、太いネクタイをボボボぶらさげて、住宅ローン、可愛い子供……といった大多数の人が及ぶ行為も、もちろん関係がない。

 もっと、内的なものである。

 僕が、はじめてランボオに出くわしたのは、廿三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向こうからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何んの準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見つけたメルキュウル版の「地獄の季節」の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えていなかった。而も、この爆弾の発火装置は、僕の覚束ない語学力なぞ殆ど問題ではないぐらい敏感に出来ていた。豆本は見事に炸裂し、僕は、数年の間、ランボオという事件の渦中にあった。それは確かに事件であった様にも思われる。文学とは他人にとって何んであれ、少なくとも、自分にとっては、或る思想、或る観念、いや一つの言葉さえ事件である。と、はじめて教えてくれたのは、ランボオだった様に思われる。(小林秀雄「ランボオIII」)

 ロックの経験とは、こういうことだ。
 この経験がある人間とは、根本でつながる。

 福田和也がいいとは、前回書いた。その後、彼の『日本人の目玉』という日本の文学者たちを批評した本を読んで衝撃を受けた。
 『日本人の目玉』では、本人があとがきで、

高浜虚子と尾崎放哉の間で理論を、西田幾多郎と九鬼隆一の間で思考を、青山二郎と洲之内徹の間で美を、坂口安吾と三島由紀夫の間で構成を、川端康成において散文を問い、そして小林秀雄にたどり着いた。その点では、本書は、小林秀雄に至る旅であると云うことができる。

というように、小林秀雄を真っ正面から論じているのだが、本書を読み、「この人は、小林秀雄をすげえ分かっている」と確信した。小林秀雄を論じる人は多いが、結構、肝を外しているものだ。吉本隆明でさえ、ピンぼけなのである。「小林を乗り越えなければ」と言ってしまう時点で、小林を分かっていないということが露見してしまっている。

 かつて池田晶子を読み、魂を揺さぶられた。のち、彼女は「小林秀雄への手紙」を書くほど、小林に心酔していることが発覚した。ロックでつながっていると感じた瞬間であった。そして、今回、福田の眼力に共感したのち、「ダーフク、お前もか」だったわけである。

 『日本人の目玉』で、福田は、なんと小林秀雄を黒人ブルースに例えている。

 黒人音楽や、ミュージッシャンに接して、しばしば味わう、即物的としか言いようがないような、じかの手触り。その身も蓋もないような、直截な言い切りに、ほかでは味わう事の出来ない、それこそ掘り出したばかりの、鶴嘴の匂いがする岩塩を嘗めるような爽快さを感じるのだ。
 普通の名詞、動詞などを集めてつくった一節なのに、他の何にも用いきれない固有名詞のように響く。そう、まさしく優れた黒人ミュージッシャンは、固有名詞だけで語っているようだし、その音楽全体が固有名詞のようだ。
 優れたブルースマンの楽曲に触れると、その歌詞だけではなく、ギターの音色やアンプリファイアの調整までもが、何やらきわめて直截な、直接に自分の頭脳や身体を撫で、摩り、揺すぶってどこかに連れていくような感覚を味わう。この、直接さと、固有性はきわめて緊密な関係を持っている。
 彼等の言葉に「直接性」を見てしまう時に、私の感性や意識もまた彼等に働きかけているという事、どちらが、どちらに働きかけている等と考える事が無意味な近さで,じかに固有名詞のような感触が浮かび上がるという事だ。


 黒人音楽や、ミュージッシャン、優れたブルースマンに触れた感動を的確に表現していると同時に、小林秀雄の批評文の核心を突いている。黒人音楽や、ミュージッシャン、優れたブルースマンを、小林秀雄に置き換えてみると、まま小林秀雄評となっているのが分かる。
 なんと小林秀雄(1902-80)は、黒人ブルースマンだったことが発覚した。

 そんな福田和也が、その文章のシメで、こういうのだった。
 同時代のライバル、ザ・ビートルズが、黒人のコピーをやめ、オリジナル曲をやりだしたのだが、ザ・ローリング・ストーンズは。

 自分たちが楽曲を作るなどという事に思いもよらず、ただただアメリカの黒人たちが作り出した、多彩で濃くて楽観的で厭世的な曲を、苦労して集めた南部のいい加減なレーベルのレコードに耳を傾けながら、音を拾い、和音を探り、そのままに演奏していた。
 今でも僕は、オリジナル曲など演奏しなかった頃のストーンズが一番好きだし、ストーンズは本質的にコピーバンドだと考えている。


 だが、そのストーンズが、まんま黒人音楽をコピーしても、どうしても違う。
 ロックになってしまうのだ、という。

 何と言ったらいいのだろう、バンド全体が立ち上がり、今すぐ駆け出そうとするような躍動感と、どこにも行く事は出来ないという焦燥が一体になった感触。
 そのロックにしかないものを、仮に僕は、ビートと呼んでみる。
 リズムではない、ビートはいったい何から生じるのだろうか。
 おそらくビートは作る事からは生まれない。
 ビートは、見る事、最も近くで一心に見尽くす事からしか生まれないものだ。
 最も近く、鼻も額も擦り切れるような近さで見る事から生じない何か。
 見る事とは、対象をどうしようもなく変えてしまう事だ。対象を動かし、彼方へと、ここより遠い何処かへと、予測もつかない形で動かし、流してしまうという事だ。
 目玉を近づける、それが、ビートだ。叩く事、壊す事だ。
 批評の目玉は、見つめる対象を、叩き、壊し、そして流す。
 量子と宇宙を、見るものとの近さにおいて貫く一撃である。


 後半、興奮しすぎて論旨は破綻し、批評文が詩に転じてしまっている。
 だがその最後の3行の散文詩こそ、最も直接身体に訴えてくる。
 蛇足だが、ロック、ビート、批評、すべて、同じものをさす。

 小林秀雄はいう。

 花の美しさというものはない。美しい花があるだけだ。
 
 これは、「あれこれ観念をもてあそぶ前に、もっとよく見ろ」という意味だ。
 だから小林秀雄は、こうも言う。
 
 画家は目があるから見るのではない。目があるにもかかわらず見抜くのだ。

by ichiro_ishikawa | 2006-09-18 04:25 | 音楽 | Comments(2)  

Commented by 仕事したくない酒呑みたい at 2006-12-08 23:07 x
冒頭の「ロックを通る」に痛く共感。
それ以上にこんな長文の力作にコメントがない哀れから
思わずコメントしてしまいました。
昨夜、PBでノラ・ジョーンズが歌う「Wild Horses」を聴いていて、
渋谷陽一の「切なくなくてはロック」じゃないという言葉を思い出し、
これまた改めて痛く共感したのでありました。。。
Commented by ichiro_ishikawa at 2006-12-09 15:40
「Wild Horses」The Sundaysヴァージョンといい、この曲、意外と女性ヴォーカルが似合うのは何故だ。本ブログ、閲覧人数に比して極端にコメントが少ないことで有名だが、実は淋しい。
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