小林秀雄アンダーライン

●小林秀雄「道徳について」より抜粋
 現代の恋愛小説は、僕には凡て退屈極まるものに見える。恋愛道徳が恋愛心理にすり変へられているからだ。恋愛とは一種の希願である。心理化とは機械化といふことだ、それが心理家には一番解つていない。
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 嘘をつくなといふ掟がある訳ではないとしても、嘘をつく時は必度自信のない時だといふ事は知つて置く方がよい。
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 自信といふものは、いはば雪の様に音もなく、幾時の間にか積つた様なものでなければ駄目だ。さういふ自信は、昔から言ふ様に、お臍の辺りに出来る、頭には出来ない。頭はいつも疑っている方がよい。難しい事だが、さういふのが一番健康で望ましい状態なのである。
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 善良な不平家といふのが一番嫌ひだ。一番救われない様な印象を常に受ける。
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 (中略)
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 自覚、これが一番難しい。自分自身を知る、この問題は汲み蓋せない。道徳の問題が汲み蓋せない所以も、其処にある。其処以外にはない。併し、いくら汲んでも汲み蓋せない処に眼を付けるのと、後から後から湧き出る所に眼を付けるのとは大変違ふだらう。
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 故に道徳は遂に一種の神秘道に通ずる。これを疑ふものは不具者である。

●小林秀雄「環境」より抜粋
 資料が資料たる性質を帯びるのは、在るがままでは単なる物質に過ぎぬ資料に、僕等が嘗て生活していた人間の姿を読み取るからだ。(中略)
 僕が今、古寺の瓦を手にしたとする。瓦の質量を積つている僕の悟性は、疑ひなく実に在る一つの実在に対している。併し、瓦を見て古へを想う時、僕はどんな確かな存在に対しているのか。それは過去の存在であらうか。併し過ぎ去つたものが存在している筈はない。では過去と考へられた現在の或るものが存在しているとしか考えられないだらう。而も、それは僕の心理の或る状態として存在するとしか考えられない以上、僕は僕のさういふ或る心理状態に対しているのか。(中略)
 それに又、古寺の瓦を手にして古へを想う時、僕は、過去と考へられた現在の或る心理状態といふやうなものを識別しているわけではない。(中略)僕は、まさしく手にした瓦に、いかにも自然に、極めて直接に過去の人々の姿を読んでいるのである。この素朴な経験のうちに歴史といふものの真髄がある。僕は瓦を単に観察しているのではない、瓦を経験しているのだ。(後略)
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 (前略)作品を鑑賞する時、眼の前の作品が原因であり、作品の作者とは、寧ろ作品の結果として考へられる。さういふ心の動きは観賞といふ行為に必至なのである。これは単に主観的理解として否定されるやうな態度ではなく、そういふ現実的な僕等の態度がなければ、眼前の文学は文学たり得ないのである。
 (中略)
 古典といふ言葉があるが、歴史の秘密が、僕等の生活体験の直中にあるやうに、古典が古典である秘密は、僕等の日常の文学観賞といふ行為のうちにある。古典の成立条件を、当時の歴史環境のうちにどんなに精密に求め得たところが、僕がその作品を古典と呼ぶ所以のものを、説明し得ないであらう。何故かといふと、古典とは、僕等にとって嘗てあつた作品ではない、僕等にある規範的な性質を提供している現に目の前にある作品である。古典は嘗てあつたがままの姿で生き長らへるのではない。日に新たな完璧性を現ずるのである。嘗てあつたがままの完璧性が、世の転変をよそに獨り永遠なのではない。新しく生まれ変わるのである。永年の風波に堪へる堅牢な物体ではなく、汲み蓋す事の出来ぬ泉だ。僕等はまさに現在の要求に従つて過去の作品から汲むのであつて、過去の要求に過去の作品が如何に応じたかを理解するのではない。現在の要求に従ひ、汲んで汲み盡せぬところに古典たらしめる絶対的な性質があるのだ。
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 芸術家は具体的な個別性に徹底するとこによつて普遍的な美を表現する。観賞者も眼前の作品の掛け交へのない個性に固執する事により、まさしく其処に普遍的な性格を読むのである。分析や要約が不可能であり、不必要である処に、作品は作品の本来の面目を現す。其処に芸術理解の本当の鍵があり(後略)

by ichiro_ishikawa | 2001-10-17 03:41 | 文学 | Comments(0)  

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