小林秀雄アンダーライン

●小林秀雄「事変の新しさ」より

抜粋の前に──
 満州事変、日中戦争などの勃発により、日々変わる世情とそれに対応して吐かれる様々な国の対応・政策、そしてそれを受ける国民の感情について、小林秀雄はただ苛立つ。すべておかしい。その苛立ちが、深く中庸な歴史認識に基づいた批評という形で、今、僕の眼の前に立ち現れる。
 折しも今はイスラム過激派が大資本主義国家アメリカへの昔年の怨みを晴すべく大規模なテロ攻撃を行ない、それに激怒したアメリカが武力行使という形での大報復をしている真っ最中。メディアも大衆も挙ってその是非について騒いでいる。冷戦後の新しい戦争が始まっている。この「新しい」事態に面接して「目には目を」という焼香臭いイデオロギーに「聖戦」やら「テロ撲滅」やら様々な意匠を纏わせて擦った揉んだしている。人事で言っているのではない。混乱の直中であればあるほど正しく考えることが重要なのだ。今のすべての行動や考えは、疑わしい。誰も頭を使っていないのだ。小林秀雄はただ苛立つ。(俺記す)

 今度新しく起こつた事変が新しいのは解り切つた事の様でありますが、その新しさの程度なり性質なりを考へると、其処に容易ならぬ問題が出て来る様に思はれます。
 退屈は精神の一種の病気とも言へる、退屈といふ病気に罹らぬ様に、僕等の精神は、常に新しい事件の刺激を求めている。併し、新しさにも程度といふものがあります。 新しい顔が見たいからと言つても、目鼻の位置が常とは違つた顔といふものでは困る。そんな顔では精神の衛生上甚だ不都合である。今度の事変には、言はば目鼻の位置の常とは変わつた様な新しさがあるのであつて、此の新しさは僕等の精神にとつて恰好な刺激といふ様なものではない。刺激となる処ではない。新しさの程度がまるで飛び離れている。
 さういふ新しさを理解するのは仲々困難な事である。考へ方次第によつては、僕等の精神の健康の為には、非常に危険な、又非常に有害な、さういふ新しさがある様に思ひます。(中略)めいめいが不安を感じている次第だが、それもただ不安を感じているだけではない、不安でいるのは堪らぬから、どうかして不安から逃れようとする。新しい事件を古く解釈して安心しようとする。(中略)事件の驚くべき新しさといふものの正体に眼を見据えるのが恐いのである。それを見詰めるのが不安で堪らぬのであります。それであるから、出来る事なら古い知識なり経験なりで、新しい事件を解釈して安心したい。言い換へればあたかも古い事件に対する様に、この新しい事件に安心対したい。(中略)こういふ心理傾向からは、なかなか逃れ難い、余程、厳しく自分の心を見張ってないと、逃れることが難しいと思はれます。僕等の嘗ての経験なり知識なり方法なりが、却って新しい事件に関する僕等の判断を誤らせるといふ事になるのであります。
(中略)
 (太閤が朝鮮出征に於いて)判断を誤らしたのは、彼の豊富な経験から割り出した正確な知識そのものであつたと言へるのであります。これは一つのパラドックスであります。(中略)さういふパラドックスを孕んでいるものこそ、まさに人間の歴史なのであります。これは悲劇です。太閤の様な天才は自ら恃むところも大きかった。従って醸された悲劇も大きかった。これが悲劇といふものの定法です。悲劇は足らない人、貧しい人には決して起こりませぬ。
(中略)
太閤のパラドックスのかけらは、又僕等めいめいの伐ち裡にばら撒かれているはずだ。事変の新しさは解り切つている様で、実は決して解り切つていない所以も其処にあるのです。
(中略)
(様々な論が現れたのに際して)論者は余程気楽な気持ちで書いているに違ひない、(中略)既知の理論やら方法やらを新しい事変の解釈に巧みに応用して安心している、事変といふ新しい魚を古い包丁で料理して疑はぬ、(中略)古い包丁を安心して使ぬ人達には、魚の新しさは恐らく本当には見えていない、古い包丁で結構間に合う程度の魚の新しさしか見えていない、(中略)
 現代に生きて現代を知るといふ事は難しい。平穏な時代にあつても難しい。まして歴史の流れが急湍にさしかかり、非常な速力で方向を変へようとしている時、流れる者流れを知らぬ。(中略)さういふ時に、机上忽ち事変の尤もらしい解釈とか理論付けとかが出来上がるから安心だといふ様な事で一体どうなるか。(中略)
 僕は懐疑的な言を弄しているのでもなければ、理論といふものを侮蔑しているのでもありませぬ。(中略)今日、指導理論がない、といふ不平とも非難とも付かぬ声を屡々聞きますが、一体、指導理論とはどういふ意味なのか。予めある理論があり、その通り間違いなく事を運べば、決して失敗する気遣ひはない、さういふ理論を言ふのでありませう。それならば、そんな理論が、今日ない事は解り切つた事ではないか。あれば何も非常時ではないではないか。尋常時ではないか。
 (中略)併し、指導理論が全然ないより、たとへ不完全なものでもあつた方が増しではないか、枯木も山の賑わいといふ事がある、(中略)僕はさういふ説を信じませぬ。溺れる者は藁をも掴む、と言ふが、(中略)藁だと知つたら掴まぬ方が賢明でせう。藁に掴まれば、これは必ず死ぬ。何にも掴まらなければ、助からないとは限りませぬ。(中略)
 ロヂックといふものは抽象的なものであり、メカニックなものであり、それが具体的な現実に、どの程度まで当て嵌まるか、それがどの程度まで現実を覆ふに足りるか、(中略)そんな風に問題をいつも出しているから、いつ迄たつてもロヂックの極意に達しないのであります。話が逆様なのである。生きた人生の正体が即ちロヂックといふものなのだ、この正体を合理的に解釈する為の武器として或いは装置としてロヂックがあるのではない。さういふロヂックは見掛けのロヂックに過ぎないのである。ヘエゲルが或る日山を眺めていて「まさにその通りだ」と感嘆したさうです。(中略)この逸話は「凡そ合理的なものは現実的であり、現実的なものは合理的だ」といふあの有名な誤解され易い言葉より、ヘエゲルの思想を直截に伝えている様に思はれます。
(中略)一体現代人は、人間の覚悟といふものを人間の心理といふものと取り違へる、実に詰まらぬ癖があります。覚悟といふのは、理論と信念が一つになつた時の、言はば僕等の精神の勇躍であります。
 彼(信長)は、乗るか反るかやつつけてみたのではない、確乎たる理論があつたのであります。ただ、この理論は、例へば首尾一貫した解り易い形では現れぬもの、現されないものであつた。それを彼はよく承知していただけの事なのである。(中略)彼は難局を直かに眺めた、難局と鏡の間に、難局を解釈する尤もらしい理論の如きものを一切介在させなかった。さういふものを悉く疑って活眼を開く勇気を、彼は持つていた、(中略)この場合疑ふとは、一つの力であります。又この場合、信長の理論とは、軽薄な不完全な理論を悉く疑つて、難局の構造とその骨組を一つにした体のものとなつていたでありませう。彼も又ヘエゲルの如く、難局を眺めて「まさにその通り」と言へたかも知れませぬ。(中略)
 「葉隠」のなかに、この思想の力強い表現があります。「修行に於ては、これまで成就といふ事なし。成就と思ふ所、その儘道に背くなり。一生の間、不足々々と思ひて、思ひ死するところ、後より見て、成就の人なり」。注釈の必要はありますまい。この事は、常に真理であります。今日の非常時が、僕等凡庸の人間にも、この真理に近付く機会を提供してくれている事は、僕は有難いと思つています、さうでなければこの事変も何が僕等の試煉でありませうか。

by ichiro_ishikawa | 2001-10-18 03:42 | 文学 | Comments(0)  

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