小林秀雄アンダーライン

●小林秀雄「カラマアゾフの兄弟」より
 しかし、ドストエフスキイは、恐らく何もかも承知していた。承知して何もかもやっていたのである。そして、そちらの方が大事な事なのだ。なるほど、彼の生活の乱脈は異常なものであったか、乱脈をわかり易く解こうとする人に、それは不可解なものに思われるに過ぎまい。灰汁まで乱脈に固執して、「猫の生活力」を自負した人にとって、何処に不可解なものがあったろうか。感傷的な傍観者が、躓くだけである。貧困、濫費、熱狂、絶望、忿怒、凡そ節度を知らぬ情熱なら、書簡のうち至る処に見附かる。あたかもそういうものに誑かされて彼は正気を失っている様に見える。だが、もし彼がよく承知の上で誑かされていたのだとしたら、どういう事になるだろうか。誑かされるのが生きるという事だというのが、彼の生活の奥義だとしたら。この一見奇妙な信条が、彼の様な深い生活体験者の心にあったと考えて少しも差し支えあるまい。

 上手に語れる経験なぞは、経験でも何でもない。そういうドストエフスキイの言葉を聞く想いをしながら、彼の書簡集を読んで来た者には、既に充分生活に小突き廻された五十歳の彼が、自ら「畢竟の人生」という「偉大なる罪人の一生」について、吃り吃り語る際、彼自身どんなおもいであったかを感得するのは難しくはない筈だ。未来の大小説について、順序なく、くどくどと述べた後、彼は、凡庸な解説家の様に言う、「要するに、根本をなす問題は、僕自身が、今日までずっと意識して、又、無意識に苦しんで来たところ、即ち神の存在という問題です」。まさに、その通りであろう。
「カラマアゾフの兄弟」について書こうとして、僕も、彼に倣って言いたい気持ちがする。「根本をなす問題は、彼の作品について書き始めて以来ずっと僕が意識して、又無意識に、見極めようと苦しんで来たところ、即ち、彼の全生活と全作品とを覆うに足りる彼の思想の絶対性とも言うべき問題だ」と。ここで、今まで書いて来たところとは別な何か新しい事を言おうとも思っていない。

 奇蹟が現れたら神を信じようと言うが、そんな事は出鱈目である。君等は決して神に君等の魂を献げやしない、奇蹟に君等の魂を売り渡すだけだ。君等の言う奇蹟とは、君等の理性が理解できぬと認めたものだ、つまり君等が理解出来ぬと理解した時に奇蹟は現れるわけだ。それなら実のところ奇蹟はまるで現れないのと同然ではないか。奇蹟が現れたと言おうと現れぬと言おうと、君等は君等の猿知恵が編み出した秩序の囚人であり、奴隷である事には変わりはない。確乎たる哲学を持つがよい、政治理論も持つがよい、決して完成される事のないバベルの塔を築くには、恰好の材料だ。だが、君等を「自由の子」「自由な愛の子」とは呼ぶまい。そういう腹なのだ。

by ichiro_ishikawa | 2001-10-31 03:45 | 文学 | Comments(0)  

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