能書き

 生あるものが決して一つ所に留まってはいないということは、たまらなく切ないことだ。一方、留まっていないからこそ好都合だということも多々あるわけで、結局は生まれては消え、目の前に表れては去り、つまりいつか誰かが言っていたように諸行無常の一言ですんでしまう真実ではある。だが、一言で済んでしまうからといって、その真実が人間の生の中でもうっかり一言で済まされるとはおかしなことだ。みんな、その諸行無常というやっかいな真実に翻弄されながら訳の分からないまま流されて死んでいく。そんな複雑なある人間の一生が一言に凝縮されてしまうなんて。
 はたして人が文を書くという行為は、何かを他者に伝えたいときであろう。他者に何かを伝える手段は多々あり、表現手法として人はその人にあった何かをその都度選んでいく。そのとき文を選ぶというのはどんな事情によるか。眼前で蠢く正体不明の何かを理性で捉えたいとという願望であろうか。言葉というものは極めて理性的なもので、その連なりであるところの文章というものも伝達のもっとも純粋で合理的で理性的な手段である。
 子細らしい顔をしてもっともらしいことを言ってみたが、実は結局、そんなことではないのだ。人が文章に向かう時、いや、俺が文章に向かう時と直そうか、それはいつの場合も、すでに動機は明確だった。悲しみを癒すためである。悲しみの種類はその時その時さまざまだけれど、何かを書くことは常に悲しみを纏っている状態だ。様々なる悲しみの正体は無常である。
 読者は、いや俺が読者に回る時は、悲しみを作家はどう癒すのだろう、つまり俺はどう癒せばいいのだろう、そんな理由による。言葉に限らず、音楽や映画といった現代のポップ・カルチャーの表現方法のすべての制作動機をそこに見つけることができるし、享受する側に回った時もその享受せんとするものもいつも同じものである。


by ichiro_ishikawa | 2004-01-06 00:31 | 日々の泡 | Comments(0)  

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