最近の読書感想

 村上春樹が講談社から『アフターダーク』という書き下ろし小説を突然出したので、一瞬躊躇したが結局購入し、その日のうちに通読した。
 「突然出した」というのは俺の主観で、散々告知はされていたのかもしれないが、俺にとっては「突然」だったというだけの話。「躊躇」したのは、『ねじまき鳥クロニクル』を最後に、以降の春樹作品には感銘を受けなかったため、「もういいかな」という感じがあったため。
 村上春樹は俺の読書体験のルーツといっていい。1987年、高校1年の時の『ノルウェーの森』以来の付き合いで、以降は新作が出るたびに読んできた。と同時に旧作も文庫で遡って読んでいった。
 今作の読後感としては、小説において新しい手法を模索したんだなという思いがまずあり、そして結局いつも通りの、チャンドラー譲りの、軽やかで知的でクールな会話を軸に“喪失感”“虚無”“それでも歩くこと”といった通奏観念が静かに横たわっている、という“春樹節”だ。マンネリとは言わない。1人の作家が言いたいこと、書きたいことなど、一つでいい、あるいは一つしかないと思っている。それをどのように紡いでいくか、その手法がすなわち延命措置の生命線となる。延命措置とは芸のない比喩だが、何を書くかがしっかり見定まっている者にとって、問題はどう書くかであって、それは不断の格闘であるからして、作家の価値はそこで流れた血の質量にあると思っている。
 その格闘の結果、つまり『アフターダーク』は“過程”ではなかろうか。一読して、「短編みたいだ」と思ったことも、そう思わせる原因だ。途中で思考を中断し、「とりあえずここまで」と上梓した、そう思える。
 春樹得意の地の文が「僕」、を今作では封印し、いわゆる神の視点で物語は進行するが、その視点は「私たち」ということになっている。「私たち」と言わずとも、読書においてその視点は私たちなのだが、あえて言明することで何か「一緒に見ている」という、映画館にでもいるような気分を喚起させる。それは手法としては凡庸ではないが、斬新でもない。特筆することはないと思う。
 「私たち」が見るシーンで異様なところは、エリの部屋だ。エリは深い眠りに陥っていて(それは自ら意志したものとのちに分かる)、部屋にはテレビがある。そのテレビがノイズを出しながらも突然映りだす。そこは白く広く無機質な部屋で、マスクをした男が座って画面からエリをじっと見つめている。やがて、エリは画面のなかにいることになり、男は画面のなかでエリを見つめる。次に男は消え、エリが起きだし部屋からの脱出を試みる。結局、最後にテレビの画面はエリが脱出に成功したのか無人になり、消える。
 そんな、“観念的な”シーンがある。その他は、マリがいるファミリー・レストラン、アルファビルという名のラブホテルなど、日常的なシーンである。
 エリの部屋だけが、“観念的”であり、それはラブホテルの名前として登場した「アルファビル」が内包する観念とリンクしているのであろうし、そこにこの作品のテーマがある。テーマとは、前述の通り“喪失感”“虚無”“それでも歩くこと”であるが、具体的に言えば、意識は無意識に“含まれている”という、これまで何度も繰り替えし心理学者や哲学者、文学者、そして村上春樹自身が繰り返し考えて提示してきたことで、それをここで今さらどうこう言うまい。いずれにせよ、読者に思考を促す取っ掛かりを提示する良書と俺は読んだ。
 凡庸ではないが、斬新でもない、のちの何かを予想させるプロローグ的な短編ということだろう。


 少し前に半藤一利の『昭和史』をとても興奮しながら面白く読んだ。氏の本は10年ぐらい前に出た『ノモンハンの夏』で知っていて、ストーリーテリングの能力がある人だと感じていたし、今回も小説を読むかのように1週間ぐらいで一気に読んだ。
 開国から日露戦争まで40年かけて近代日本が築き上げてきたものを、以降、太平洋戦争までの40年で台なしにしたという。その後、また40年かけて高度に成長してきたものがバブルとしてはじけた、というのは蛇足にしろ、開国から45年というのは、日本史の中でも、もっとも身近ということもあって、実に興味深い。
 当時の軍人を中心に政治家、大新聞など国の上層部の愚行が明るみに出ると同時に、思考しない(したくない)国民の愚かさも感じた。ただ文学者、例えば本作では永井荷風、だけが、やはり真にものを見つめ思考していたのだと思った。
 また、戦争においては国民性というのが非常に如実に顕われるものだと。最後に著者が愚行の4つの本質的な性格を挙げているが、それらは今にも通じる日本人の宿命的な“タチ”であった。まあ、それらは日本人に限らずではあるけれど、やはり性質を乗り越える不断の思考というものを俺は実行していかなければならないと、強く感じた。
 戦争は何が原因にしろ、その本質には利己主義があり、そこで思い出されるのはキリストの精神、いわゆる「汝の隣人を愛せよ」という思想である。

 ということで、トルストイの『光のあるうち光の中を歩め』を一気に読んだわけだが、ここで具体的に、俗と聖の違い、聖なるものの実行の難しさ及び、聖の絶対的正しさが、立ち顕われているのを認めた。こうした心の洗浄が俺にはやはり必要だった。

by ichiro_ishikawa | 2004-09-09 03:10 | 文学 | Comments(0)  

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