アトランティックR&B 前編(1947-60)

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 池田晶子さん急逝のショックで悲しみに明け暮れているが、いつまでも喪に服しているわけにもいかない。前々回の原稿を機に異様に盛り上がってしまったアトランティック熱がいまだ収まりきらないので、私なりの鎮魂歌として、そのベストテンを、今回はカウントダウン方式でなくクロニクルとしてレーベルの歴史とともに述べていこうと思う。
※1955年からのジャズ部門、60年代後半からのロック部門は省き、R&Bに特化して記述。

1.「Mardi Gras In New Orleans」Professor Longhair
(Professor Longhair 1949)

c0005419_2391537.jpg1949年、南部への旅
 アトランティック・レコードは、1947年10月、在米トルコ大使を父に持つアーメット・アーテガンが、ナショナル・レコードのプロデューサーであったハーブ・エイブラムスンとともにニューヨークで設立した。アーテガンは、父親がヨーロッパ在任中に、生で聴いたキャブ・キャロウェイやデューク・エリントンに感動し、兄のネスヒ・アーテガン(L.A.でのレコード店経営を経て、アトランティックに参加、ジャズ部門を支える)と共にアメリカの黒人音楽に夢中になっていったのだった。
 設立から2、3年の間はヒットが出なかったが、その間、アーテガンは相棒のエイブラムスン、作曲家のジェシー・ストーンと、よりダウン・トゥ・アースな音を求め南部巡礼を行なっており、49年、ニューオーリンズで、このプロフェッサー・ロングヘアー(1918-1980)を見い出し、録音した。そのうちの最高傑作がこの「Mardi Gras In New Orleans」。左手でへヴィなシンコペーションを叩き出し、右手がその間を縫うように跳ね回るニューオーリンズ・ピアノがすごい。長髪教授はその後、心臓発作や肝硬変といった度重なる病気のため一時、音楽活動から離れざるを得なくなり、遂にはレコード店の掃除夫で生計を立てるまでになったが、71年「第2回ニューオーリンズ・ジャズ・アンド・ヘリテッジ・フェスティバル」への出演を機に、再評価の嵐が吹き荒れる。アーニー・K・ドゥ、アラン・トゥーサン、ファッツ・ドミノ、ヒューイ・ピアノ・スミス、ドクター・ジョン、ネヴィル・ブラザースへ、その血は受け継がれている。


2.「Daddy Daddy」Ruth Brown
(Rudy Toombs 1952)

c0005419_2394019.jpg 初期アトランティックを支えたのが、このルース・ブラウン(1928- 2006)。1948年にアーテガンとエイブラムソンはニューヨークから自動車でワシントンに出向き、ナイトクラブで歌う彼女の歌を聴いて契約を決めた。ルースの歌う曲はたいてい大衆的なバラッドが中心だったが、アーテガンはR&Bへの転向を彼女に説得した。
 ルース・ブラウンは、1949年「So Long」でデビュー。ヒットとなり、1950年にリリースしたルディ・トゥームズ作曲の「Teardrops from My Eyes」は、「ビルボード」誌のR&Bヒットチャートの1位を11週連続で占め、R&B歌手として地位を確立した。彼女のレコードは、1949年から55年にかけてR&Bレコードチャートトップ10に149週間にわたりチャートイン。それら16曲のうち5曲は1位を記録。ルースはアトランティック・レコードの看板歌手として活躍し、社のビルは「ルース御殿」とまで呼ばれた。R&BとはRuth Brownの頭文字から取られた! とまで言う大げさな輩も。


3.「Mess Around」Ray Charles
(A. Nugetre 1953)

c0005419_2310455.jpg 黒い音楽を追求するため、南部を巡り、ハーレムに通い続けていたアーメットと仲間たちは、52年、レイ・チャールズを獲得した。映画『Ray』によると、ナット・キング・コール風の甘いピアノ弾き語りを得意としていたレイに、強烈なR&Bビートを吹き込んだのは、アーテガンのようだ。この「Mess Around」の作者名は、アーテガンのペンネーム(Ertegunの綴りを逆さにしたもの)で、まさにキング・オブ・R&B、レイ・チャールズの生みの親と言っていい。
 レイはその後、「I Got A Woman」(Ray Charles 1954)「Hallelujah, I Love Her So」 (Ray Charles 1955)、「What'd I Say (Parts 1&2)」 (Ray Charles 1959)と名曲を連発し、結果、米大手ABCに引き抜かれてしまうが、レイのキャリアの音楽的黄金期はアトランティック・イヤーズであろう。


4.「Money Honey」Clyde McPhatter & The Drifters
(Stone 1953)

c0005419_23101933.jpgジェリー・ウェクスラー登場
 1953年は、アトランティックの第一の転機だ。アーテガンの片腕ハーブ・エイブラムソンが陸軍召集で経営から一時離脱。そこで経営陣に加わったのが、「ビルボード」誌の記者だったユダヤ系青年ジェリー・ウェクスラーだ。ウェクスラーは、黒人音楽を指す差別的な呼称「レイス・レコード」を「リズム&ブルース」に変えた人物とされる。彼が最初期に育てたのが、このクライド・マクファーター率いるザ・ドリフターズだ。この頃から、ピアニスト兼アレンジャーのジェシ・ストーン、エンジニアのトム・ダウドといったアトランティックの黄金スタッフによる大全盛期が始まる事になる。


5.「Yakety Yak」The Coasters
(Leiber - Stoller 1958)

c0005419_23103359.jpgリーバー&ストーラー登場
 アトランティックの歴史で絶対に外せないのが、コースターズ、ドリフターズと言った黒人コーラス・グループの存在で、その裏には、ジェリー・リーバー&マイク・ストーラーといった黒人音楽大好きの白人名ソングライティング・コンビがいた。55年、アーティストが増えすべてに手が回らなくなったアーテガンとウェクスラーは、スパーク・レコードからこの2人を引き抜く。ブラックの粘っこいノリに白人のポップな感性をまぶしたリーバー&ストーラーの楽曲群は、まさにアーテガンが求めていた音楽だった。コースターズ by リーバー&ストーラーは、この「Yakety Yak」の他にも、「Searchin'」 (1957)、「Young Blood」 (1958)、「Charlie Brown」 (1958)、「Poison Ivy」 (1959)と、珠玉のポップ・ナンバーを連発する。ちなみに、リーバー&ストーラーの下で見習いで働いていたのが、後に大プロデューサーとなるフィル・スペクターである。


6. 「Save The Last Dance For Me」The Drifters
(Pomus-Shuman 1960)
「Stand By Me」Ben E. King
(King & Glick 1960)

c0005419_23105492.jpg 1958年、クライド・マクファターに代わり、ベン・E・キング(1938-)がドリフターズに加入する。「Dance With Me」(1959)、「This Magic Moment」 (Pomus-Shuman 1960)などのヒットを輩出し、1960年、この必殺の「ラストダンスは私に」を放った。作詞作曲は、ブリル・ビル・ポップのドク・ポーマスとモート・シューマン。ベン・E・キングはこの曲を最後にドリフターズを脱退しソロ歌手に転向。すぐさま傑作「スタンド・バイ・ミー」をリリースした。ジョン・レノン『ロックン・ロール』(75)でのカバーを出さずとも言わずもがなの名曲だ。


次回、後編は、いよいよアトランティックがあのスタックスに……!

by ichiro_ishikawa | 2007-03-04 23:29 | 音楽 | Comments(0)  

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