俺はあやまらない

 俺はあやまらない。
 あやまりたくない。
 許しも乞わない。許して欲しくない。
 もちろん。もちろん俺が悪いのだ、俺が悪いんだと知っている。それがどうしたというのだ。
 悪いことをして、何が悪い?
 反省なんてしたくない。
 したくはないが、反省じみたことを想い、巡らして弱ってみる湿った弱さ、自己慰籍をする女々しさはあるかもしれない……嫌なことだが……反省などに何の価値があるのだろう。やり直せることなどはない。取り返しのつかないことがあるだけだ。とは云え、大抵のことは取り繕うことができる。情けないし、救われないことだが、それで何とかもち堪えてきてしまった。
 責めたいなら責めればいい。罰したいのなら罰すればいい。口笛を吹きながら絞首台に向って歩いていく短刀遣いマックのようにはいくまいし、泣き言も漏らせば、しおたれもするだろう。でも、俺はあやまらない。

 福田和也の新刊が扶桑社から出た。扶桑社という事で、つまり『en-taxi』での巻頭特集記事をまとめた本だ。特集の俎上に乗せられているのは、元ルースターズ・大江慎也、画家・大竹伸朗、建築家・磯崎新、落語家・立川談春、文藝評論家・保田與重郎、陶芸家・吉田明、俳人・角川春樹、作家・洲之内徹、映画監督・中島貞夫らで、引用文献も含め、本当に「凄い人」たちが、凄い人の言葉でずらずらと登場し、息をつかせない。

 俺は日々、人生劇場の中の主役であり脇役でありナレーターなのであるが、その様々な場面で、「その役がよしんば俺だったら」ということを考えてしまう癖があって、例えば、テレビで紳助やさんまがパネラーたちをさばいているのを見るにつけ、「あの役を次からやれと言われたら…」、あるいは、「パネラー側で、紳助に急にふられたら…」とか、大物のライブ鑑賞中「突如ベースギターの代役を頼まれたら…」とか、また、街の雑踏の中、実に様々な人間を目にするにつけ、「これら人々の人生を片っ端から描写していけと言われたら…」とか、非常に精緻に分かれた枝、微妙な陰影を持つ細かい葉っぱ、すべてが一様でない花びら、それらを持つ大木、「その群れを一幅の絵に描けと言われたら…」といった義務感を感じてしまい、「ええ? まじでか!?」と、おののきながら、ふと我に帰り、「あ別に誰からも課せられてないか…」と気づき、ほっと安堵するという一幕が、往々にしてあるのであった。

 そういう癖のせいかどうか知らぬが、福田和也の本を読むといつも、一介の読者という立場にかかわらず、「これよりずけえ事を書けといわれたら…」との強迫観念に駆られた末、「こいつは俺よりすげえ」という敗北感を味わってしまう。
 知識、というのはなんでもない。たとえば「スキゾの概念」という言葉がさっぱり分からなくても、それなりの文献を読み、考察すれば一応理解は出来る。要はただ、その言葉なり概念に触れた事があるかないかの違いだからだ。
 それよりも、「常識」とか「歴史」といった、誰もが知っている言葉に対して、その本質をどれだけ深く鋭く抉っているか、「経験」しているか、こそがよほど重要なのであって、それは知識ではなくやはり「経験」と呼びたいものである。いかに自分の頭で、自己流に考えているか、こそが肝なのである。自己流というのが大事だ。書物はいよいよインスピレーションに過ぎない。書物を読めば知識は溜まる。だから何だというのだ。それらを自己流に考え、言葉と親身に交わらなければ、何にもならない。ただ要領よく生きられるというだけだ。そんなものに何の価値がある?
 福田は博覧強記で知られているが、立花隆などの学者や批評家と一線を画すのは、小林秀雄ばりの精神の鋭敏さである。知識量が膨大というだけなら何でも無いが、それらの知識は本来の意味での知識であり、それらとの身を持っての交わり方が半端ではないのである。高々自分と10歳ぐらいしか離れていないが、その差は賢老人と幼児なみの開きがある。

 それだけならまだいい。俺が福田を前にして、大枚をはたいたパイロットの万年筆を永遠に使うまいと思わざるを得ないところ。それは、ロックだ。
 いかに博識で鋭敏でも、ロックが分かっていなければ全然ダメなのであるが、彼奴は、すげえロックを分かっているのであった。好みは多少違うけれど、趣味、好き好きを超えたところで、批評自体の自立性というところに焦点を合わせると、いかに深く音楽と交わっているかが分かる
 俺は福田には全くかなわない。ということはサシで対話するには50年早いということで、これは、いよいよなんとかしなければならない。
 とりあえず、福田を超えなければ、俺が出る幕はどこにも無いという事を痛感している。だが、それでも立ち向かうしか無いのだろう。いや、立ち向かうというのは正確じゃない。俺は俺流に俺なりに歩くだけである。俺の人生を生きるのは俺でしかないのだからな。
 ひとまず言えるのは、「こんな事している場合じゃない」。これが分かっただけでも福田との出会いは大きい。

by ichiro_ishikawa | 2007-03-31 23:16 | 文学 | Comments(1)  

Commented by おおたけ at 2007-04-02 00:46 x
じゃあ今日は、スキゾの概念について…
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