「クイズ・えらいひとの心中」第3回の答え


(前略)
 言葉は、先ず似せ易い意があって、生まれたのではない。誰が悲しみを先ず理解してから泣くだろう。先ず動作としての言葉が現れたのである。動作は各人に固有なものであり、似せ難い絶対的な姿を持っている。生活するとは、人々がこの似せ難い動作を、知らず識らずのうちに幾度となく繰り返すことだ。その結果、そこから似せ易い意が発生するに至った。これは極めて考え易い道理だ。実際、子供はそういう経験から言葉を得ている。言葉に習熟して了った大人が、この事実に迂闊になるだけだ。言葉は変わるが、子供によって繰り返されている言葉の出来上がり方は変わりはしない。子供は意によって言葉を得やしない。真似によって言葉を得る。この法則に揺らぎはない。大人が外国語を学ぼうとして、なかなかこれを身につける事が出来ないのは、意から言葉に達しようとするからだ。言うまでもなく、子供の方法は逆である。子供にとって、外国語とは、日本語と同じ意味を持った異なった記号ではない。英語とは見た事も聞いた事もない英国人の動作である。これに近附く為には、これに似せた動作を自ら行なうより他はない。まさしく習熟する唯一のやり方である。
 (中略)
 例えば、「お早う」という言葉を、大人風に理解して誰が成功するか。「お早う」という言葉は平和を意味するのか、それとも習慣を意味するのか、それとも、という具合で切りがあるまい。その意味を求めれば切りがない言葉とは即ち一つの謎ではないか。即ち一つの絶対的な動作の姿ではないか。従って、「お早う」という言葉の意味を完全に理解したいと思うなら、(理解という言葉を、この場合も使いたいと思うなら)「お早う」に対し、「お早う」と応ずるより他に道はないと気附くだろう。その点で、言葉にはすべて歴史の重みがかかっている。或る特殊な歴史生活が流した汗の目方がかかっている。昔の人は、言霊の説を信じていた。有効な実際行為と固く結ばれた言葉しか知らなかった人々には、これほど合理的な言語学はなかった筈である。私達は大人になったから、そんな説を信じなくなった。しかし、大人になったという言葉は拙いのである。何故かというと、大人になっても、やっぱりみんな子供である、大人と子供とは、人生の二面である、と言った方が、真相に近いとも思われるからだ。これに準じて言葉にも表と裏がある。ただ知的な理解に極めてよく応ずる明るい一面の裏には、感覚的な或いは感情的な或いは行動的な極めて複雑な態度を要求している暗い一面がある。
 歌の言葉は、知的理解を容れぬものだ、そんな事なら誰でも言うが、歌が言葉の生活のうちで、どんな位置を占めているものかを反省するものは少い。歌人にも少ない。だから歌は技芸の一流に堕して了ったのだ、と宣長は言うのである。歌は詠んで意を知るものではない。歌は味わうものである。似せ難い姿に吾れも似ようと、心のうちで努める事だ。ある情からある言葉が生まれた、その働きに心のうちで従ってみようと努める事だ。

                     
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(小林秀雄「言葉」より抜粋)

by ichiro_ishikawa | 2007-04-17 09:06 | 文学 | Comments(0)  

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