聖書と俺(プロローグ)




 俺が聖書を愛読していることはあまり世間に知られていないが、実は聖書歴は30年なのであった。幼稚園から小6まで日曜学校に皆勤していたのであった。
 聖書を素朴に信じていた真面目な俺だったが、正直者がバカを見る悪の巣窟・小学校で生き抜くためには、聖の部分を隠して偽悪者を演じなければならなかった。
 さらに、「人を殺さなければ人にあらず」が掟、群雄が割拠する戦場・中学校というところでは、キリストが盲目の民の目に手をかざして目が見えるようにしたエピソードや海が裂ける例の逸話は、「作り話」だと一蹴して、悪魔に魂を売り片っ端から人を殺して行かなければ逆に殺られた。
 だが、高校に入り、地下室の実験も順調に回りだした頃、一度葬った聖書をまた紐解くことになり、聖書の話は、「作り話」とかそういう問題じゃない、ということに気づいた。以来、そういう問題じゃないと確信しつつ、今に至っているが、じゃあどういう問題だ、との質問にはうまく答えられずにいた。
 そんな中、小林秀雄経由で、ドイツの相当偉い人、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの次のような言葉に出会い、思わずほくそ笑んだ。

「ローマの英雄などは、今日の歴史家は、みんな作り話だと思っている。おそらくそうだろう。だが、たとえそれが作り話だとしても、そんなつまらぬことを言って、いったい何になるのか。それよりも、ああいう立派な作り話を、そのまま信じるほど、われわれも立派でよいではないか」
(「兄小林秀雄との対話」高見沢潤子)

by ichiro_ishikawa | 2007-09-13 00:40 | 文学 | Comments(0)  

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