私家版・ユダヤ文化論


 2002年、小林秀雄生誕100年の節目に、新潮社は季刊誌「考える人」を創刊し、同時に「小林秀雄賞」というものを設立した。その前年からは新たに全集が刊行されていて、2001年〜2002年は、周知の通り世間的に大・小林秀雄ブームだったわけだが、その約1年半の間、俺は30歳という節目に面接し、会社勤めを中断していたこともあって、ほとんど「小林秀雄だけ」を1日8時間は読んで毎日を過ごしていた。

 そんなわけで俺は小林秀雄賞にも敏感なのだが、第1回は『文章読本さん江』(筑摩書房)で斎藤美奈子が受賞した。斎藤美奈子は、当時、自分の中の「出れば即買う作家リスト」に名を連ねていたので、やはり俺の好むものは、どこか「小林秀雄的なるもの」があるかどうかがポイントになっているのだなと、ややひとりごちた。その後も第2回(2003年)の吉本隆明『夏目漱石を読む』(筑摩書房)、第4回(2005年)の茂木健一郎『脳と仮想』(新潮社)が選ばれているが、1年に2〜3冊しか新刊を買わない俺が購入したものは、かなりの確率で小林秀雄賞を受賞する運びになっていて、つくづく自分と小林秀雄の結びつきの強さに感嘆の念を禁じ得ない。

 私家版・ユダヤ文化論_c0005419_1725287.jpg2007年の小林秀雄賞の受賞作は『私家版・ユダヤ文化論』内田樹(文藝春秋)で、今回は、読んでいないものが受賞となった。なぜか知らぬがアラブとイスラエル、旧ユーゴ界隈の紛争といった「やっかいなもの」に尋常ならざる興味を覚え、常日頃から「文化論」と「ユダヤ」という両タームにも強力に惹かれていた俺は、当然触手を動かされたのだが、「内田樹」という名前が、違う意味で引っかかった。本屋の入り口付近でよく見る名前である。芸術の分野で売れているものは、悉く駄作という経験則から、即買いには至らなかった。
 
 その日、ディスクユニオンの神保町ブルーズ&ソウル館で、1枚800円の戦前ブルーズの中古盤をしこたま買い終えた俺は、ブルーズの歴史的な部分を細かく著述している書籍を探しに三省堂の4階へ向った。4階は哲学書のコーナーもあるせいか、小林秀雄賞コーナーが設けられていた。コーナーの看板書は、もちろん件の『私家版・ユダヤ文化論』。俺は、足を止めた。
 やはり「ユダヤ」はすこぶる気になる。さらに小林秀雄賞受賞作、養老孟司推薦という「買うべし」ファクターは揃っている。それと、「内田樹」=よく見る名前=売れている人=ブタ野郎、というわがままな俺公式による「棚に戻すべし」ファクターがピタッと釣り合っていた。この均衡を破壊するものは何か。それが現われないと俺は、この三省堂から出られないではないか。
 まず状況が均衡を破った。近くには「ランチョン」がある。この三省堂で大枚をはたかなければ、最高に美味い「グリルチキンとライス」1400円が食える。「棚に戻すべし」ファクターが一つ増えたことを受け、ランチョンへ向うことが決定した。最後の見納めとばかりに俺は本を手に取り、帯の惹句(じゃっく)を一瞥。「私はこの“強さ”を買う」と養老さんは推薦している。“強さ”ね、なるほどな、小林秀雄賞だものな、そりゃ論理を超えた強さがあるのだろうよ。だが、俺はランチョンをとります、養老さん。じゃまた今度! と書を置こうとしたその刹那、裏表紙のある文字が目に入った。
 「リーバー&ストーラー」。
 よく読むとこうある。「キャロル・キングとリーバー&ストーラー抜きのアメリカン・ポップスが想像できないように、マルクスとフロイトとフッサールとレヴィナスとレヴィ=ストロースとデリダを抜きにした哲学史は想像することもできない」。
 キャロル・キングはともかく、「リーバー&ストーラー」を持ち出し、アメリカン・ポップスを引き合いに出してくるのならば話は違って来る。ランチョンは吹っ飛び、「買いや否や」の目盛りは、一気に「買い」に振れた。俺は、本書を片手に、興奮のあまり、平積みになっている他の書籍を片っ端から手ではじき飛ばしながら、セカンドラインのビートに乗って、微笑をたたえたスキップでレジへ向った。

 俺は、すぐに読み干したい衝動に駆られたため、タンゴが流れる小さな喫茶店ミロンガに飛び込み、グァテマラを注文すると、今の陽気的に、着てくるには若干早すぎたレアルレザーのブラックコートを脱ぐのも忘れ、本書を貪り読み始めた。
 キャメルマイルドを一箱空け、俺以外の客が10回転した頃、とっくになくなっているグァテマラのおかわりを促すこともなく、水と灰皿を何度も取り替えてくれていた、阪神の金本似とはいえ独特の弥生美人的なキュートさを持つウェイトレスが俺に言った。
「ごゆっくりどうぞ」。
「さらにか!」。俺は少し感動した。「おうともよ! まだ半分も読んでないからな、あと2、3時間、何も注文せずいさせてもらうぜ」。俺は遠慮なく言い放ち、ついに読了したのだった。

 本書は、概して、文化論、ユダヤ人論というよりも、深いところでの哲学、宗教について考えさせられる、考えるヒント的な本で、久しぶりに新刊で読んでよかったと思わせるものであった。

FIN





てめえのための補記

【小林秀雄的な部分】
●ユダヤ人という対象を語ることは竟に己の夢を懐疑的に語ることになるという自覚。私家版と名付けた根拠でもある。
●内容は哲学的で分かりづらいが、「“話のつじつまが合いすぎる”というのは、あまりよいことではない。むしろ“片づかない言葉”こそ記憶に残るのだ」、「文章が分かりにくいのは、ユダヤ人自体のわかりにくさ」と述べる、ある意味での開き直り。
●ユダヤ人迫害の根拠自体の是非ではなく、根拠を是とする人が存在するのはなぜか、という、一次元上げた問いを所有している。それは、戦争賛成・反対の是非よりも、賛成に与する人が存在するのはなぜか、その理路をこそ考えるという態度と同じで、よりことの本質に迫ろうという意志がうかがえる。

【魅力的だが分かりづらかったので後で読み返してめえの頭で再度考えてみようと思った部分】
※いずれもその論拠は明快ではないが、その直覚自体が魅力的であり、あとは自分で考えてみたいという気を起こさせる、考えるヒントを提示している。
●ユダヤ人というのは国民名ではなく、人種でもなく、ユダヤ教徒のことでもない。「なにがユダヤ人ではないのか」という消去法でしか、ユダヤ人というものを掴めない。これはサルトルも言っているらしく、サルトルは迫害されるという「状況」がユダヤ人をユダヤ人たらしめていると書いているそうだが、本書では、ユダヤ人は「この『世界』や『歴史』の中で構築されたものではない。むしろ、私たちが『世界』とか『歴史』とか呼んでいるものこそが、ユダヤ人とのかかわりを通じて構築された」という。
●近代社会の根底には、「罪あるがゆえの有責性」というキリスト教的思考法が想定されるが、ユダヤ的思考では、聖書の「ヨブ記」に顕著なように「有責性が罪に先行」し、ゆえに、ユダヤは「特別な憎しみ」の対象となる。
●「本書で言いたいこと」は、ユダヤ人はそのつど既に遅れて存在する、反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していた、という2つ。
●ユダヤ的思考の内実は、「自己の判断枠組み自体への懐疑、自同律への不快」であり、それは「知性」の定義そのものだという。つまり非ユダヤが真に恐れているのは「知性」であり、「ユダヤ人」とは、それを体現した人々なのである。

by ichiro_ishikawa | 2007-10-19 16:05 | 文学 | Comments(1)  

Commented by イチブル at 2007-10-19 23:48 x
着てくるには若干早すぎたレアルレザーのブラックコートを脱ぐのも忘れ、本書を貪り読み始めた……俺も読んでみる。
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