エッセイ「タバコと俺」

 俺が愛煙家であることは広く一般に知られているが(喫煙というのは目に見える行為だから他者に知られるのも容易だ。当たり前だが)、愛煙の都パリでさえ、いよいよカフェエで全面禁煙となったことが象徴する通り、世界中で嫌煙ムードが広がっている。愛煙家にとっては、史上最悪の逆風が吹いていると言えよう。
 それはいい。別に。風潮なんてものは大した事じゃないし、嫌煙に限らず、「地球の自転」という事実が、俺にとっては逆風だ。さらにいえば、人間であるということがすでに逆風を浴びている。人はいずれ例外無く死ぬという事実を鑑みても、そも、人間は生きるのに向いていない。これは逆風なんて生易しいものじゃない。日々、命がけで生きている。世の禁煙ムードなんて可愛いもので、俺にはまったく関係ない。

 ただ、この流れの中で俺が言わねばならぬ事は、「禁煙ムード」をかさに、正義面した嫌煙家がのさばる事に対する違和感だ。
 きゃつらは、法律だか、条例だかを後ろ盾に付けて、学級委員の様に、喫煙者を「叱る」。

 たとえば、社会的に「禁煙」と決められた所で喫煙をした場合、それは喫煙者が悪いし、叱られても文句を言える筋合いではない。だから、俺は、叱られれば謝罪し、直ちに消して去る。とはいえ、反省するわけではない。金で解決がつくのなら罰金を払って、またそこで吸おう。喫煙のルールを、俺は必ずしも守るつもりはない。
 また、歩きタバコをしていて、すれ違い様に眉をひそめる人などを見ると、俺は、その人の顔に煙を優しく吹きかけたあげく、ポイ捨てして、ブーツのかかとでもみ消すことにしている。それは眉をひそめたその人のため、よかれと思っての行為だ。眉のひそめ方にもよるし微妙なのだけれど、要は、その時に「何かを後ろ盾にしている」かどうか、が問題なわけだ。

 そういう人間を見ると、学校の合唱コンクールを思い出す。ウブで青く自意識過剰な当時の俺は、合唱コンクールで歌う自分という姿をひどくカッコ悪いと思い、一切歌おうとはしなかった。すると、気の強い女子ども数人が、「ちゃんと、う・た・い・な・よ〜」と独特のイントネーションのユニゾンで叱咤して来る。俺は、その物言いに腹が立ち、「このブスどもが!」とばかりに、きゃつらのケツにケリ、延髄切り、ローリング・ソバットを決めるという対処しかできなかった。今思えば、その時のきゃつらの、何かを後ろ盾にした、「あたいら=正義、あんた=悪」という思慮の浅い幼稚な二元論、自分は正論を主張しているだけという、ある種の「無責任さ」に、直覚的に憤っていたのだと思われる。だから、「あの〜、申し訳ないのですが、一応せめて口パクだけでも…どうかひとつ…体裁を保ちたいもので…」とか言われれば、口パクでなく、得意のテノールで朗々と歌い上げてもよかったはずだ。

 今の禁煙ムードで厄介なのは、禁煙を主張するものが権力者だという事だ。高圧的なのだ。たとえば、煙にひどく迷惑している子供がいたり、副流煙を気にする人が、喫煙者に喫煙を控えるよう促す勇気がなくじっと耐えていたりする状況などでは、たとえそこが禁煙区域でなくとも俺はその場を静かに立ち去る。
 喫煙のマナー、社会のルールというけれど、それらは、マニュアルや行動規定があるわけではなく、状況に応じて、人間と人間の間の情、機微、わびさび、といった顕在化しにくいが確実に我々の生を根底で支えている、お勉強では決して身に付かないものが、そのベースにあるという事を見失いたくない。
 それらは必ずしも合理的なものではない。「空気を読む」ということが最近よく言われるが、空気を読む能力を身につけるために、「空気を読む」技術なる本を読むとしたら、それ自体、すでに空気が読めていない。ロックをやるため「ロック・スクール」に行ったら、その時点ですでにロックではないのと同じ事だ。

by ichiro_ishikawa | 2008-01-12 18:57 | 日々の泡 | Comments(1)  

Commented by ichiro_ishikawa at 2008-01-15 12:02
と書いた翌日、風邪ひいた。
体調悪いときって副流煙けむすぎ。最悪。喫煙者の気が知れねえ
名前
URL
画像認証
削除用パスワード

<< 保坂和志の慧眼 エッセイ「年末年始と俺」 >>