エセー「文学」


 「あらすじで読む文学」みたいな本が売れているけれど、その「あらすじ」は「文学」ではないのは言わずもがなだ。文学を実用書として吸収しようとする事から起こる愚かな勘違いである。文学は生活の役に立たない最たるものだ。では何故文学か。知らぬ。ただ、あらゆる文学のあらすじを理解する暇があれば、たった一編の小説の再読を重ねる方がよほど凄まじい文学体験となる事は間違いなく、その凄まじい文学体験は、やはり人間の芳醇さと密接に関係してくる事は疑えない。 

 文学の面白さは細部にある。その一文一句を自分が生きる事にある。誤解を恐れずに言えば、ストーリーなんてものはなんでもない。だから、あらすじなんてものは文学から最も遠いところにある。
 文学の醍醐味のひとつは、考える喜びだろう。読中、読後に、必ず深い思索を促される。読む前と読んだ後で違う自分になっている。
 小林秀雄の面白さは、考えることと、実行することが二つのことではないところで、つまり、小林秀雄の、考えるは、生きると同義である。空想めいたものはひとつもない。

 たまたま手にした、白水社のモンテーニュ「エセー」の中に入っていたチラシに養老孟司の文章が載っていて、面白かったので全文転載する。
 自分で考える人は、あんがい少ない。自分で考える人と、そうでない人の区別は、簡単である。話が面白いか、面白くないか、それで分かる。
 ただし「面白い」という言葉の真意は単純ではない。解剖をやっていたとき、私が「解剖は面白い」といったのを、伝え聞いたある人から咎められたことがある。不謹慎だという。
 モンテーニュのエセーは「面白い」。内容は不謹慎かもしれないが、面白いのである。読む本に困ると、本棚から「エセー」を取り出す。どこから読んでも、差し支えない。それがたいへん便利である。
 自分で考えるためには、自分で生きなければならない。すべてのことを、結局は自分でやらなければならない。モンテーニュもそうだった。領地の面倒を見て、さまざまなトラブルを片付けた。当時のフランスは、日本の戦国みたいな時代だったと、私は勝手に想像している。そういう時代の小領主は、いまでいえば、中小企業のおやじさんであろう。なんでも自分でやる。
 そうやって生きると、当然ながら「自分で考える」ようになる。だから話が面白い。組織に属して給料をもらうと、それができない。仕事の中の決まった部分しか、やらないからである。それも、うっかり自分の考えでやろうとすると、さまざまな面倒が起こる。だから決まりどおりにやろうとして、決まった生き方をするようになる。
 そのほうが生きやすい。でも生きやすいとは、じつは「面白くない」ことである。それでも人々は生きやすいほうを望むらしい。自分がそうだと思うなら、たまにはモンテーニュを読んでみたらいかがか。アッと思うかもしれないのである。

by ichiro_ishikawa | 2008-02-03 22:34 | 文学 | Comments(1)  

Commented by chiaki at 2008-02-07 14:05 x
>ストーリーなんてものはなんでもない。
よくわかります。
貴方の綴られる言葉によく共感を覚えて胸がいっぱいになります。
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