クリントン対オバマ


 池田晶子の慧眼は、話の主題ではなく、“ツマ”にこそ、それを語る人の本音が出る、と見抜いている。日本の政治家の失言は、ほとんどがこのパターンだ。演説の後に、合間に、余談的にポロッと出る発言には、台本に含まれていない、その人本来の資質を表す本音が発現してしまう。政治家は聖人君子ではない。むしろブタ野郎の代表なのだから、その本音がいかに醜いものかは子供でも知っている。ただ、それを出すかどうかは、政治家は「公人」であり、公人が発するのは「公の言葉」なのだという、認識如何にかかっている。

 ディベート最先進国アメリカで、そのプロ中のブロは政治家であろう。さらにその頂点は大統領であろう。その演説は練りに練られ、「公の言葉」という認識は、日本人政治家とは比較にならぬ程、深く、徹底している。

 大統領選の民主党の候補指名争いで、ヒラリー・クリントン上院議員とオバマ上院議員が戦っている。オバマの演説受けの良さを意識したクリントンが、「言葉で変化が起きると思う人もいるかもしれない。でも、あなたも私もわかっている。言葉なんて安っぽい」、「(オバマ氏は)演説をするが、私は解決策を示す」「私たちの違いは『言葉対行動』だ」と演説したそうだ(朝日新聞2月16日朝刊)。

 バスカルならこう言うだろう。
「ふとした事で、お目出度さから馬鹿な事を言うのは、あり勝ちな病気だが、計画的に馬鹿な事を言うとは我慢ならぬ事である」

 クリントンは、オバマを、「口先ばかり」「行動が伴わない」と批判したかったのだろうが、そんなストレートな物言いでは文学的なセンスに欠けると思ったのか、そのような言となった。余程、いい作家が付いているのか。

 俺のことを悪く言うのは構わないが、親を悪く言うのは許さない。

 これは人間の生活に深く根ざした良識で、だからこそ、我々は他人に対しても絶対にそうしないと肝に銘じて生きている。だが、クリントンはやってしまった。しかも計画的に。
 そも、人をけなす事で自分を良く見せようという野党的心性が醜悪なのだが、クリントンはオバマに勝つために、彼の演説の内容を批判しようとして、その演説を支えている「言葉自体」の価値を貶める手段を取った。

 我々が、ある人に動かされるときは、いつだってその行動に動かされる。それは間違いない。だが、どんな人のあらゆる行動も、それは必ず、「言葉」によって支えられているのである。「人民の人民による人民のための政治」と言ったリンカーン然り、「私には夢がある」のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア然り。まず、はじめに、言葉がある。理想がある。行動は、その言葉の覚悟の深さ、理想の高さから来る。「言葉」と「行動」は対立する概念ではない。同じことなのだ。ダメな行動の裏には、必ずダメな言葉が潜んでいる。過去の偉人は、言葉を何よりも大事にしていたからこそ、その言葉は行動とイコールになった。

 言葉を「安っぽい」としている人間の、どんな行動も、俺は信じられない。 

by ichiro_ishikawa | 2008-02-16 16:35 | 文学 | Comments(1)  

Commented by わど at 2008-02-16 17:48 x
はじめまして。
シャレじゃないんですけど、
「はじめに言葉ありき」といったのは、聖書?
この失言を、オバマ氏と参謀たちはどう利用するのでしょうか。
ふふふふ。
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